猫好き陶芸作家のカフェ絵咲木へいらっしゃいませ・・・



   
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山口 久美子

Author:山口 久美子
陶工房 カフェ ギャラリー 絵咲木

猫好きな店主の,ほのぼの毎日。

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福岡県八女市本町65
tel 0943ー22ー2634
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はちくんとさくくん。二匹ではっさく。

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アメリカンショートヘアーのみかん、看板猫8歳♀。長女のお嫁入りでお引越し。

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かぼす♂ 2014.5月1日から天使猫修行中

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H23.5/26お空の住人に 茶太郎♂永遠の15歳

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狩が得意で気ままなコルト♀8歳(自宅組)

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中村文平 苺畑の魔法使い  [オンデマンド (ペーパーバック)]

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「月のルルカと黒猫スプーン」

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高校の文芸部の先輩、中村文平さんの 児童書です。

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絵本 やくそくどんぐり
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traveljpというサイト

   
traveljpというサイトが、とてもよく書かれているので、そのまま写させてもらいました。


ライターさん、すごく勉強されていますね。

福岡県柳川市。縦横無尽に走る掘割をどんこ船で進む川下りで有名です。また、柳川藩は九州きっての名将・立花宗茂を藩祖とすることでも知られ、明治維新まで柳川を治めた立花家を別邸の御花などで偲ぶことができます。

柳川藩の中心であり、立花家の本拠であった柳川には無論、城がありました。屈指の堅城でしたが、現在は街に埋没してしまっています。そこで、今回は名城・柳川城の痕跡を探してみることにしてみましょう。

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写真:小谷 結城

柳川城は本丸と二の丸を内堀で囲み、本丸の南に三の丸、西に西三の丸、北に北三の丸を設け、これをさらに中堀で囲んでいます。この外側は城内。城内をさらに外堀で囲み、この外にある城下をさらに2つの川で挟んで間を運河で繋げることによって囲んでいます。すなわち、柳川城は4重の堀に囲まれていました。

また、背後は有明海。有明海の干満差は4メートルともいわれ、潮の流れが激しく、川から一気に海に出てしまうこともできました。攻めにくく、守りやすいのです。この城を改修・整備して現在の縄張にしたのは、奇跡の所領復帰を果たした宗茂ではなく、その間の柳川を統治した田中吉政でした。

吉政は武将でありながら複数の都市の町割も行った、いわば“まちづくりの名手”でした。彼は水辺や川を活かした城づくり、まちづくりをよく行っており、柳川はまさに彼の集大成ともいえる作品だったのです。

写真は2つの川を結んだ運河です。柳川橋が架かり、三柱神社が隣接する掘割のことです。柳川は掘割が丸ごと残されたおかげで水堀にあたる掘割もほとんどが残りました。この点は、構造物がほぼ消えてしまった柳川城にとって不幸中の幸いだったと言えるでしょう。

柳川城防衛の鍵!「柳川城堀水門」

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写真:小谷 結城

運河を南に下ると、柳川城堀水門があります。水は北を流れる川から取水して、ここより外堀、中堀、内堀に水を引き入れています。この水門が城内に入る唯一の水門で、有事の際はこの水門を閉め、川の上流の堤防を切り崩して水を流すと、城内、柳河(城下の町場)、宮永(城の南)を残して周辺は水びたしとなり、全く島のような状態になるのです。

水びたしになれば、柳川は元々、低湿地帯。周囲に残る湿地では足を取られ行軍が困難となり、張りめぐらされた大小の掘割は、誤って落ちると溺死してしまう攻撃的な防御施設に変身します。まさに、水を操って城を守る柳川城防衛の鍵がこの水門だったのです。

風情ある中堀


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写真:小谷 結城

本丸と二の丸を囲む三の丸、西三の丸、北三の丸。これら3つの曲輪を囲んでいたのが中堀でした。黒門橋の架かる東側は直線ですが、その他3方は折れが見られ、防衛機能を高める意図が感じられます。これは西側に本丸があったからでしょう。

写真は中堀の西三の丸側で、堀の奥が西三の丸、手前が城内(捨曲輪)です。捨曲輪とは西の沖端川から侵攻する敵を迎え討つ場のことです。この堀に沿った遊歩道は詩人・北原白秋が学生時代に通学路にしていたことから「白秋道路」と呼ばれています。堀が屈曲していることで風景に変化があり、どんこ船の往来も楽しめます。

なお、天守閣のあった本丸は柳城中学校、御殿のあった二の丸は柳川高校。わずかながら柳川城の石垣も見られます。


最後は運河沿いの三柱神社です。初代藩主・宗茂、その父で初代当主・道雪、妻の誾千代の3柱を祀ることからこの名があります。天明3(1783)年に7代藩主・立花鑑通(あきなお)が柳川城内三の丸の長久寺境内に社を建立し道雪を祀ったことが始まりで、文政9(1826)年に9代藩主・鑑賢(あきかた)によって現在地に移されました。

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さて、柳川城の痕跡は境内に向かう朱塗りの反橋にあります。遷座の同年に架橋されたもので、擬宝珠は柳川城の二の丸と三の丸を結んだ橋のものなのです。擬宝珠をよく見ると「柳川城之橋也」と刻まれた文字も見られます。

石垣や堀、土塁が残っていることは多いですが、擬宝珠が残っており、今も実際に使われ、直接触れられるのは貴重なことでしょう。思いがけない形で城の痕跡に出合えることに感慨を覚えます。

柳川には田中吉政と柳川城が欠かせません

いかがだったでしょうか。柳川観光はとかく北原白秋や立花宗茂らにスポットライトが当てられますが、実は白秋が愛でた掘割も、宗茂が居城とした城も、宗茂が所領を没収されたのちに柳川に入部した田中吉政によって造られたものなのです。

吉政は豊臣家の忠臣として秀次を補佐。関ヶ原の戦いでは東軍・徳川方に属し、石田三成捕縛の功を上げ、筑後国32万石の大名となりました。吉政は領地の整備、統治機構の構築、農業生産高向上に腐心しましたが、吉政の後を継いだ2代・忠政が後継ぎを残さず若くして亡くなってしまい、田中家は無嗣嫡子で改易。ここに宗茂が復帰するわけです。

吉政によって築かれた柳川城は前述の通り。城下町も現存する町名から往時を偲ぶことができます。吉政の築き上げたものにも目を配って柳川を歩けば、柳川観光はより一層楽しいものになるでしょう。


traveljpは、これです http://guide.travel.co.jp/article/21843/

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柳川城のこと

   
フェイスブックにも吉政公のことを書いています。


昨日もらったメッセージがお勉強になりますので、載せておきます。


九州の、加藤家、田中家は、初めから改易と徳川幕府は、決めていたと思われます。何故ならば、両家共豊臣大名の中でも重臣中の重臣九州の中央部を両家におられては、後先幕府にとっては、心配の種になるからです。改易後どの大名を入れるか?の時元柳川藩立花宗茂公が、義の武将で元の場所に(柳川)に戻してやれば幕府に尽くしてくれると考えたからでしょう!

柳川に戻られた宗茂公は、柳川は、元より筑後国の変わりようにさぞ驚かれた事でしょうね。柳川から横浜までの距離がある掘割。
土塁を高くして五層の天守閣を造営(今でも高い建物を建てる時は、コンクリートパイルを深く打ち込まなければならない程の湿地帯)
有明海の干拓(慶長本土居)筑後川と矢部川を結ぶ運河(花宗川)の開削
柳川〜久留米の街道通称田中道(現在の県道柳川線)筑後川の直流化(久留米瀬の下開削)等数々の田中吉政公の功績です。この仕事をたったの20年でやっておられます。本当に凄い人です。


おぉーすごいです。

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宗茂公が、柳川に戻られた時絵師に書かせた柳川城の絵です。
復元したいものですね。

美しいですね。(*^^*)

別名舞鶴城と言われています。
吉政公が、柳川に入る前の柳川城は、蒲池氏が蒲池城の支城として建てた城です。又田中家改易後、筑後国は、久留米藩と柳川藩の二つの藩に分かれ久留米藩が21万石柳川藩が、10万9千石三池藩が、1万石計32万9千石になります。
田中時代が、32万5千石なので田中時代で4千石石高を増やした事になりますね!やはり凄い武将ですね


おぉー、ワンダフル。





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筑後国主田中吉政顕彰会演劇会

   

2月12日に、筑後国主田中吉政顕彰会のご要望で、吉政公の命日に近いこの日、お芝居をさせて頂きます。

会場は、柳川市の料亭勝島。

この回で、3年目になり、吉政公の勇姿と、子供達の知られざる姿を中村文平による書き下ろしシナリオでお届けします。

昨年は、城や堀の工事時の話や有明湾側の干拓事業「慶長本土居」の話、その中にある、後継問題、親子の葛藤が心を震わせる物語でした。

さて、今回は、次男の久留米城主則政のお話。菩提寺西方寺の建立の物語を中心に、話は進みます。

長い間閉じられていた歴史の扉が、開こうとしています。
ご期待下さい。

ご希望があれば、顕彰会員以外でもご覧頂けます。

会場の人数制限はありますが、無料ですので、お問い合わせ下さい。

また、時間などは追っておしらせします。

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2017年元旦

   
明けましておめでとうございます

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年末は、大晦日の夜、文平座のみんなと、久留米市北野町の西方時さんに行きました。

新調された鐘を突いてきました。

人生初めての、ごーーーん。

どきどきでしたよ。

そして、車の中で、年を越して。

ばたばた帰って、夜明け前起き出して、毎年行っている場所へ。

今年は、綺麗な日の出が見れました。

皆様、今年も宜しくお願いします。



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師走、陶芸の先生も走ります

   
先日は、ちょー過密な日で、福岡からツアーで、伝統工芸館で陶芸教室。

柳川の散策とうなぎを食べてからの八女入り。

若い方中心で、賑やかでした。

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粘土作業のみなので、後の仕上げはお任せです。

工芸館で、久しぶりに自分の展示作品を見ました。

お隣の物産館では、販売の納品に時々行きますが、ここには久しぶり。

夜は、父のお世話になっているコーラスグループの忘年会。

お店を一夜だけの居酒屋に変身させました。

前後が、大変。

なれないことは、疲れましたが、元気な皆さんの歌い治めのお手伝い。

楽しんでいただけたようです。

父も、喜んでいました。


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