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2023-06-27 (Tue)  17:21

田中吉信公の功績

以前、お借りしたブログ記事を見直しました。

色々変なので、お気を付けくださいね。

「田中筑後の弟・久兵衛は吃音で、
2万石を取っていた。
娘が一人いたので、婿養子をとった。
これが田中主殿だった。
久兵衛は後に半慶と名乗った。

久兵衛の弟の
田中民部、田中将監は、
徳川秀忠の姪の婿だった。


筑後の兄・田中主膳は早死にした。
荒いふるまいの人物だった。
関ヶ原の時、筑後が徳川家康の供をし、
主膳は留守として吉田にいた。
その海辺を九鬼・大隅が放火した。
それを追いはらい、
自ら足軽の首をひとつ取った。

初代の田中筑後は、
宮部善祥坊の家臣だった。

関ヶ原の時、筑後が徳川家康の供をし、

主膳は留守として吉田にいた。

その海辺を九鬼・大隅が放火した。
それを追いはらい、
自ら足軽の首をひとつ取った。」


西方寺 
吉信公菩提寺 久留米市北野町西方寺


関ケ原の戦の時、小山会議があり、田中吉次は家康と会い、三河国吉田城主池田輝政が城を空けていたところに田中吉信が留守居をしたってことですよね。

何を読んで書いたのでしょう?

ずいぶんとおかしいけど、大事なことは多いです。

留守居で城を守り、九鬼水軍、大隅と戦った…でしょうか。






九鬼・大隅って別々の人物だと思ったら、調べてみてびっくり、九鬼大隅守 嘉隆でした。

田中主膳正吉信は、この人の水軍が火を放って上陸したので、そこで戦って軍功を上げたのですね。

吉信は、当時13歳~14歳の若者です。

田中興廃記では、このあと荒くれものとして書かれます。それを見て書いた本からげなげなと広がり…。

吉信公の、現在残っている書状の字は優しくて、小鳥を貰って感謝を伝える手紙なのです。

筑後国久留米城主をしておられました。

tenpouzu.jpg

6月29日は、吉信公の4013回忌です。

現在も、子孫の方が居られます。

たぶん、吉信公には、娘さんしかいなかったのかもしれませんね。

それで、養子を迎え、田中の名前を継いでいったのでしょう。

たぶん…ではいけないので、頑張ってお調べします。

娘を持つ父は、一般的に優しく家族的でしょ?

田中興廃記に出てくる奇才人物は、作られたものです。

あれは、おかしゅうございます。




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最終更新日 : 2023-06-27

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