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2023-03-10 (Fri)  19:26

田中吉政の顔の傷

東谷ズムというサイトに吉政の事が書いてありましたので、お借りしています。

以下

[秀次を補佐した田中吉政]

「田中吉政」は一般には“関が原の戦いの後、石田三成を生け捕りにした武将”として知られてきましたが、近年はその“関が原の戦いの通説”自体も大幅に“崩壊”しそうで、目が離せない状況です。

それはともかく、田中吉政は「高代寺日記」に頻出する人物であり、本稿でもしばしば触れています。彼の登場が多いのは、彼が摂津に入部した若き秀次の筆頭補佐であったからで、近年の研究においては、吉政は北近江において宮部長熙(継潤)の家臣出身で、秀次が宮部継潤の養子であった頃からの縁のようです(太田浩司「田中吉政の出生と立身」)。

摂津における“三好孫七による“行政”は、実質、田中吉政が取り仕切って代行していたと思われ、例の塩川運想軒による仲立ちを含めて、滅亡後の塩川浪人が近江に転封した“羽柴秀次に多くが再仕官出来た”ことも、言わば、田中吉政を通じてでした。近年では杉尾(猪名川町)の元・多田院御家人、平尾氏が、秀次の刑死直後である文禄四(1595)年十月、三河・岡崎城主となった田中吉政の家臣となっていたことが公表(宮川吉久知行宛行状・「川辺郡猪名川町における多田院御家人に関する調査研究3」所収(2017))されましたが、「高代寺日記」に記された諸状況や、連載第十三回でお伝えした「塩川十兵衛」に関する情報とも整合していて、「やはりそうだったか…」という印象です。

さて、山鹿素行が延宝元(1673)年に著した「武家事紀」には、田中吉政が秀次の家臣として、摂津の「池田城」を受け取る際、“戦闘”があったことを伝えています。

「~秀次摂州池田城ヲ賜テ(池田初池田信輝(恒興)領之 信輝移岐阜城 秀次移池田城 秀次者信輝聟也)入部ノ初、池田庄入信輝カ足軽トモノ妻子ハ未濃州ヘウツラズ、其儀ニ付テ狼藉ノコト出来リ取込リ者アリ、吉政夜中ニ續松(ついまつ:たいまつ)ヲナケコミテ押入リ、賊ト力闘〆、ツイニ是ヲ撃殺、此時面ニ疵ヲ蒙テ~」(武家事紀)

後世の二次史料ながら、吉政が摂津「池田城」を受け取る際に、城下に居座り続ける恒興の足軽と格闘があり、顔に刀傷を受けたエピソードが紹介されています。池田恒興の転出が穏やかでなかったという緊張感は、まさに前述した「イエズス会日本年報」に記された状況と同じです。なお、この「池田城」(いけだのしろ)は「塩川城」などと同じく「池田氏の城」という意味で、おそらく恒興の「尼崎城」や「大坂城」、元助の「伊丹城」における出来事が混同されかと思われます。そして、有名な田中吉政の肖像画(無帽、白小袖のもので、信憑性は高いと思われる。個人蔵)においては、彼の鼻から口にかけてリアルな“刀疵”が描かれており、吉政が“木枯し紋次郎も真っ青”のご面相であったことがわかります。一般的な彼の「文官」のイメージと異なり、やはり「修羅場をくぐり抜けた戦国人」であったことが、この肖像画からも窺えます。

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ちょうど、今度のお芝居の一幕めが、この、摂津の時の傷の場面なので、こんなかんじだったのか…と。

摂津池田は、摂津池田でよく調べておられる方がいらっしゃいますね。

田中吉政の歴史案件は、ほぼ全国に散らばっているので、九州の私は大変!

皆さん、宜しくお願いします。


2月13日



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最終更新日 : 2023-03-10

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