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Top Page › 歴史 › 田中家後継ぎ問題
2023-02-18 (Sat)  15:51

田中家後継ぎ問題

福知山城のホームページを、たまたま見たのですが、

明智光秀が討たれ、その領地の一つだった福知山城でしたね。

その後、いろんな人が城主になるのですが、寧々様の叔父の杉原家次が城主の時、病気で亡くなると、1587年小野木重次が入るまでの間、年表では2年間空欄ですが、田中吉政が入ります。

中々、書き込んでいるものはないですけど。

その後有馬豊氏。

1621年からは岡部長盛。

転勤ラッシュ。

有馬さんは、ここから久留米城へ移封。

岡部さんは、堤台城から福知山に行ったわけで。

つまり、その空いた堤台城に田中吉次がぁ…です。

1609年に吉政が亡くなり、

吉次の消息は、次の年、慶長15(1610)年の名古屋城普請に忠政に同行しているあたりから見失っています。

九州を出たまま、戻っていない可能性もありです。

大阪の冬陣(1614年)、大阪冬の陣(1615年)の時は、どうしていたのか調べ中です。

1615年には、一国一城の令が出され、支城を持つことも許されなくなり、

1616年には、忠政と吉興の公事沙汰始まると田中興廃記にはあるらしていですがなかなか信じられないけど、

忠政の正室は、徳川家から来た椿ちゃん。

吉興の娘婿は、徳川家の血筋を引く母なので、

幕府は、田中家を使って力を付けるには、どんな方法が良いか模索していたのでしょうか?

今の、市役所や役場を合併するのと一緒で、大変だったはず…だけど、

吉政亡き後、広い筑後の国を、幕府はどうしてほしかったのでしょうねぇ。

若い忠政は、悩んだでしょうねぇ。

後継ぎ問題どころではなく、いったい、この広い筑後国経営はどーするのって感じですよね。

家臣たちも、兄たちに馴染んでいて使いにくいだろうし。

そんなので、へんな噂話のでっち上げ物語を書かれてしまうのですよね。

どこをどう調べると、出て来るのか、悶々としております。

田中吉次こと、田中河内守吉久、新情報、お待ちしています。

ちなみに、今回の八女福島文平座のお芝居は、この後継ぎ問題にかなり迫っています。

お待ちしていま~す。

2月13日



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最終更新日 : 2023-02-18

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