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Top Page › 歴史 › 田中河内守吉久という名前
2023-02-05 (Sun)  17:11

田中河内守吉久という名前

ちょっと、幸せ感がダウン気味なので、気を紛らわして、今日は、歴史のお話。

何かに集中すれば、充電できます。

ボーとしていると、うつうつしてしまいがち、いかんいかん。


昨年は、田中吉政研究で、唐突に進んだのが、嫡男の吉次の消息でした。

先日、柳川で柳川史料編纂委員会の講演に行った時に、九州大学院の中野先生に名刺を頂き、その後メールをしたのですが、

残念ですがお返事がありません。

その文章が、分かりやすいので、一部ここに上げてみます。


「…例えば、滋賀県にある神社の再建記を書いた「神崎郡志稿」に、田中吉次は、当時は田中河内守吉久と名乗っていたとあります。

寛政重修諸家家譜の吉次の項の中にも、確かに吉久はあります。

その神社を再建した時は、ちょうど忠政が名古屋城普請で出向いている頃で、同行していたのではないかと思います。

その頃、忠政が、徳川家家臣滝川忠征へ宛てた書状が柳川市史 史料編にありますが、その中には、吉久に任せているので後はよろしくといったくだりがあります。

先生の柳川の本にも、吉久は、家老職のような役割で出てきますね。

その人物が、吉次だとすれば、何処にも行かず、忠政を支えていたことになります。

そして、下総国堤台城跡に、その子孫の方が住み続けておられます。野田市野史料編纂の本には、諸説あるところですが、ご子孫の方はそうおっしゃっています。

堤台城へは、岡部長盛が移封した後、大阪の陣の後に入ったようです。岡部長盛の正室は、忠政の正室の姉です。

すぐ近くに、姉妹たちの兄の関宿城があります。徳川家の親戚たちの集まる地域です。…」



かいつまんでですが、嫡男は、400年もの間、父と喧嘩して廃嫡され、田中家から去って、貧乏で生活に困ったと書かれていました。

どこでそうなったのかは、「田中興廃記」という小説のような物を一級の史料として取り扱ったからです。

でも、吉次が、河内守吉久として筑後に居たと、滋賀県の、昔の研究家は知っていたことになります。

「田中興廃記」が、田中家の歴史に影響を与えていないのは、江戸時代に江戸ではなく、久留米藩の家臣が書いたものだからでしょうか。

滋賀県の研究者は、それを史料としていないかもしれません。

筑後国から、吉政と同じの故郷に帰った家臣たちもおり、吉政が32万5千石ほどの大名になったことは、名誉なことだったでしょう。

現在の滋賀県、近江国から筑後国へ、たくさんの家臣たちが同行しているので、残った者もいたでしょうけど、帰った者も多かったはずです。

なので、故郷の研究者の書いた史料の方が、素直で、毒されていないのかもしれません。

昨今、テレビ、小説などの影響で、記憶が更新され、歴史も、目立つ方を残し、後は消して、新たな史料をプラスしていくことになっている気がします。

その対策は、どうしたら良いのでしょう?

虎姫旅行5


吉政のふるさと、滋賀県長浜市三川虎姫、虎御前山からの景色です。

昔の人は、船や、馬、徒歩で、どれだけの時間使って移動したのでしょうね。

近江国の長浜から近江八幡、三河国岡崎、筑後国への道。

来週は、田中吉政顕彰会総会、吉政公の菩提寺真勝寺でご命日法要です。

岡崎から、歴史研究家市橋先生がおいでになってスピーチをされるそうです。

お店は、夕方まで、閉めることになります。



近江国、また、そろそろ行って見たいです…。




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最終更新日 : 2023-02-05

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