以前から、田中吉政嫡男田中吉次の晩年の行方を探っていました。
そんななか、千葉県野田市の生涯学習課からの電話で始まり、この堤台の地に居を構えたのが吉次だったと感じていたのですが、
立てられた説明板を見ると、居を構えたのが、慶安(1648-52)年間と書かれています。
えーー?

確か、ご子孫のインタビュー記事では、吉次が亡くなる二年前にここに移ってきたと書いてありました。
どっちが正しいのか、わからないってことでしょうか…。
まず、その頃は、吉次は、田中河内守吉久と名乗っていますから、その名乗りの文書が大事に思われていない可能性がありますね。
なので、一つでも出てくれば、紐解けるとおもいますが、道は険しいのでしょうか。
へこみます。
この説明板がもし正しいなら、吉次の子供かまごの時代です。
そんななか、千葉県野田市の生涯学習課からの電話で始まり、この堤台の地に居を構えたのが吉次だったと感じていたのですが、
立てられた説明板を見ると、居を構えたのが、慶安(1648-52)年間と書かれています。
えーー?

確か、ご子孫のインタビュー記事では、吉次が亡くなる二年前にここに移ってきたと書いてありました。
どっちが正しいのか、わからないってことでしょうか…。
まず、その頃は、吉次は、田中河内守吉久と名乗っていますから、その名乗りの文書が大事に思われていない可能性がありますね。
なので、一つでも出てくれば、紐解けるとおもいますが、道は険しいのでしょうか。
へこみます。
この説明板がもし正しいなら、吉次の子供かまごの時代です。
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最終更新日 : 2023-11-12