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絵咲木陶器と猫とカフェ日記 そして田中吉政の歴史

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2020-08-21 (Fri)  16:49

舞台 「氷輪の如く」

昨日は、豊臣秀次公の1595年8月20日、西暦でのご命日でした。

秀次


写真の青年は、今度豊臣秀次役の宇井晴雄君です。


宇井春雄


田中吉政とは関係が深いからこそ、その歴史の世間での理解は、中々難しいものがあります。

一番、書かれていて多い事は、
1.何故、秀次公が切腹した時、宿老であった吉政は連座しなかったか?
2.その後、領地を加増されたことを秀次事件に加担していたからではないか?
3.石田三成に助けられて、命拾いしたかもしれない?
などなど、韓国ドラマ並みに、筋書きを陰謀筋書きにやりたい小説家さんも、歴史ライターさんもおられます。
それは、
1は、吉政は、近江八幡城の采配時に筆頭宿老でしたが、この位置は、豊臣秀吉から付けられた付け家老で、吉政の直の親方様は秀吉でした。
2.秀次公が亡くなった後の、領地の支配をしてもらわないと困る存在だったと思います。(岡崎城は、関東入封で江戸へ行った徳川家康の生誕地なので、一族がいるここを任せられる人は他に居なかった)
それまでの、吉政は、秀吉が平定した土地に、いち早く赴き整え、新たな城主を就かせ、また、次の城に移動するという仕事ぶりでした。今で言うところの、支店の采配を整えて支店長に渡す統括マネージャーだったでしょうか。秀次公が近江八幡城主だった頃も、城主の秀次公は、2度ほどしか近江八幡城に入りませんでした。ほぼ聚楽台か、戦場でした。代わりに吉政が領地を任されていたわけです。秀次公が、領地に清須城が加わった時も、吉政は整えに出向いています。
1590年に、岡崎城主になるまで、秀吉にあれやこれや、頼まれ忙しく動いています。
3.石田三成との関係は、陰謀を巡らす仲では無かったと思います。三成も、彼の書状の字を見たことがありますが、とても伸びやかで、どちらかと言うと天然系で、温かな字でした。秀吉愛が溢れていた気がします。
そして、吉政の方が12歳程上です。良く、三成が秀吉に紹介して仕官が整ったとか、書いている本がありますが、吉政が秀吉についた時は、三成はまだ子供でした。

長くなりますから、これくらいにしておきますね。

今度の10月4日のお芝居は、秀次公が出て宇井ちゃんの演技に泣き、

その後の関ヶ原の戦です。

三成とのやり取りに涙なしでは観れないでしょう…。


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最終更新日 : 2020-08-21

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