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絵咲木陶器と猫とカフェ日記 そして田中吉政の歴史

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2020-01-09 (Thu)  14:06

面の坂

関ケ原の合戦後、立花宗茂は、柳川城を開城して、懇意だった加藤清正の肥後に身を寄せた。

本郷組大庄屋の嫡男、檀七郎兵衛のいとこの久左衛門(信一)は、柳川城を見渡し、肥後に引っ越す立花宗茂と誾千代姫にお供して手伝った。
檀家(分家)は、肥後での生活を心配して、米は食料としてだけでなく、通貨でもあったので、当時、藩外持ち出し禁止の米を、芳司村の廣田宮社内の實蔵にで、極秘で妻、妹並びに親族11人で連判を致し、塩俵に見せかけた米入り俵、842俵を作り肥後に運送した。
宗茂は肥後大瀬、誾千代姫は、宗茂と柳川で別居して宮永殿にいたので一緒に行かずに腹赤村へ。

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面の坂


しかし、国境番所で発覚し、拝領の御書14通を引き揚げられ、慶長7年7月10日に正文寺で死罪と決まった。

家内と親族11人も同様に死罪と下された。

檀七郎兵衛 樺島彦左衛門 面の坂で磔刑 磔の刑 
七郎兵衛の父大炊介(旧本郷城主・大庄屋)矢部川一本松の川原で斬首
彦左衛門の父樺島式部(旧松延城主・宮永組大庄屋)屋敷で切腹
(注)宮永は、誾千代姫が宗茂と別居して設けた屋敷のある場所

これで、今分かることは、この話を後の世に書いた本があるのだが、田中吉政が見せしめのために翌日処刑したというもの。
送り始めたのが慶長5年11月から毎月1回ほどの約2年の間。
捕まったのが慶長7年7月10日。

しかし、この7月は、吉政は徳川の手伝(天下)普請で柳川には居なかった。
あの慶長本土居の大工事の時も居ないのです。では、誰がなぜ即決した?
思い出して頂くと良いのですが、これまで吉政は、罪人を罰せず、更生の方法をいろいろと考えています。
岡崎城の時も、家と田畑を与えたり、塩田のための燃料となる松を植樹させたり…。
家臣には、百姓の話をよく聞け、それでも百姓が困っていたら家臣を罰するとまで言っています。
だから、もし、吉政が居たら、そんなことにはならなかった筈です。
メールも電話もない時代、京都までの連絡が入り、吉政は悲しみに震えたかもしれません。

そして、「台所入掟五十五条」を送ります。
それには、これでもかというほどの細かい指図がなされていて、吉政の手作りであろう猿の印が押されていました。


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最終更新日 : 2020-01-09

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