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絵咲木陶器と猫とカフェ日記 そして田中吉政の歴史

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2019-04-05 (Fri)  16:42

木曽川の堤普請と田中吉政

天正18(1590)年、豊臣秀吉は、関東の北条氏を制圧し、同年7月に新たに諸大名の大幅な配置替えを行った。

その年、吉政は岡崎城主になった。

豊臣秀次は尾張を領するが、引き続き奥州に出陣していたため、尾張の領地は不在のままだったため、秀次不在時に吉政が文書を出している。留守居役としても動いていた。

文禄2(1593)年11月、秀吉からの「尾張国中置目」によって尾張国荒地復興が命じられ、堤普請も進められる。

翌3年正月、秀次家臣徳永寿昌、吉田吉寛、原長頼とともに、田中吉政が惣奉行に命じられる。

堤が大破した海東・中島・海西・葉栗・春日井・愛知郡・堤がない知多・高橋・丹羽郡など各地ごとの奉行14名が決められ、三好吉房からも14名の奉行が出された。

木曽川


日数は25日間の予定であったが、実際はその後も続けられたようである。

普請には武士の普請衆や百姓が動員され、中島郡(現一宮市)の工事では6090人が従事している。

武士には、飯米が1人1日につき5合支給された。

普請箇所は、中島郡では、約105キロメートル、海東郡(三重県側)では、約155キロメートルに及び、全部合わせるとかなりのの大工事であった。

「秀吉を支えた武将田中吉政」サンライズ出版 尾張と田中吉政の項 播磨良紀より


筑後国での慶長本土居は、すごいと思っていたけど、その前にこういう工事をこなして来ていたのだから、心配なかったかもしれない。

みやま古地図


現に、吉政公は慶長本土居工事のその日、準備万端で頼れる重臣たちに任せて、江戸にいたそうです。

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最終更新日 : 2019-04-05

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