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2019-03-18 (Mon)  22:08

岡崎市 内田市長のブログ

ちょっと前の、岡崎市長さんのブログに、岡崎城の詳しいせつめいを書いておられるので。コピーしてそのままあげさせていただきます。

内田やすひろの政策日記より

以下

先生方のお話では、我々が走り回っていたお堀の造りは、「戦国期の城の様式を伝える大変貴重なものである」ということだった。堀の斜面が土のままの所もあるが、この方が足がすべって攻めにくかったらしい(切岸、きりぎしという)。最初の堀の対岸側は石垣で少し高くなっており、かつてそこには土塀(どべい)が巡らされていた。城内に侵入して来た敵をここから、弓や鉄砲で攻撃できるようになっていたという。

 堀の上部の石垣の切れ目の通路はかつては土橋であり、対岸には「太鼓門」という二階建ての櫓門があったそうだ。→図のA

岡崎古地図


 さらにこの城門を突破した敵は二つ目の堀に沿って360度左手に回らされることになる。右手に二つ目の堀、左手には石垣とかつて土塀があったせまい道は持仏堂曲輪(じぶつどうぐるわ)と呼ばれ、ここを通過する敵は城側から再び弓と鉄砲の洗礼を受けることになる。しかも後方からである。幸いにしてこの城は実戦でここまで攻め込まれることはなかった。

 この二つ目の堀は大きく右へわん曲している。このような形の堀は「清海堀」(せいかいぼり)と呼ばれ、このあたりでは大変珍しいものだという。
しかもカーブの形状は美しく石垣で整えられており、お城ファンにとってはたまらない魅力であるそうだ。こうしたわん曲した堀は戦国期の特徴の一つでもある。土造りの浅いものなら東北地方によくあるそうだが、堀の外周面が石垣造りとなっているものは国内でも例が無く、石垣の形状から田中吉政の時代のものと江戸期に修復された部分の違いが分かるという(やはり専門家の目はスゴイ!)

岡崎城 内田市長


 お城の真北から二つ目の堀の上を渡る「廊下橋」がある。→図のB
 これは城からの出撃や脱出を考えて造られたものである。直接、天守閣に接続する位置に橋があるのも珍しく、現存しているのは唯一岡崎城だけだという。
 今見られる橋は明治以降に造られた石造りのものであるが、本来は木製であり、屋根付きの櫓(やぐら)のような橋であった。しかし「石橋の方もすでに近代文化遺産としての価値があるため大切にするように」というお話であった。
 お城の東にある現在の「巽閣」(たつみかく)の北面の石垣は、「深くて、水堀とのコントラストも大変美しく、余分なモノを取り除いて修景してPRすべきである」との御指摘であった。
 「この部分の石垣は切り込みハギでモザイク状になっており、これは江戸後期(19世紀)の様式」とのことである。
 このように比較的新しい石積みと、戦国期と江戸前期、中期のものと多様な石垣が見られるというのも岡崎城の魅力の一つと言える。また巽閣の石垣の表面には、石工のノミの跡が残っている。きれいに平行なスジがついているもの、乱れているものなど個々の職人の腕の差まで察しがつくらしい。

岡崎城 内田市長2


 現在巽閣の反対側には明治期の郷土の偉人、志賀重昂博士(明治期、イギリスの王立地理学会のメンバーにもなっていた地理・民俗学者)による、アメリカのテキサス州にあるアラモ砦の守備隊の戦いと日本の長篠城攻防戦の勇士達を讃える石碑が立っている。→図のC
 同じものがサンアントニオ市のアラモ砦に贈られているが、これについても「近代の歴史遺産として大切にするように」ということであった。そして後ろにある石垣は枡形(ますがた)の虎口石垣と呼ばれ、これも関ヶ原の合戦以前のものであり、大変珍しいものだそうである。またここにも城門があったという(本丸御門)。

岡崎城 内田市長⒊


 いよいよ龍城神社前からお城の正面位置まで来た。岡崎城の大きな魅力の一つは、秀吉の大坂城(昔は土偏の「坂」であった)築城に際し加藤清正と共に城造りに関わった田中吉政が築いたものであるため、二つ城の類似性が多く見られる点である。付櫓の位置や形状が同じであるし、天守台の北側に幅約6メートル、西側に幅約3メートルの武者走りの通路が設けられるなど、失われた豊臣・大坂城の天守の様子が数多くうかがえるという。徳川の本拠地で、豊臣の城の痕跡が残っているというのも一興である。
 天守台の石垣が忍返し(しのびがえし)の形、算木積みではなく、逆反りの勾配になっているが、これは決して手入れが悪くて石垣が孕(はら)んだわけではない。野面(のづら)積みという戦国期特有の石垣であり、この形状のものは現在では岡山城、延岡城と岡崎城の三城と、彦根城の一部のみにしか見られない。(三城に岡の字があるのは偶然か?) 写真に見られるように、石垣の上下で色が違っているのはカビと地衣類によるものだという。
 また城の西側から下る坂道の両側にある石垣にも、かつては非常口としての城門があった。石垣上部に残る加工の跡は門の冠木のなごりだという。「石垣の上にある松の木は、後世のものであり、石垣の保存のために悪いので切るべし」というのが三浦先生の御意見であった。


以上です。

この記事で、気になったのが、大阪城は、秀吉の大坂城(昔は土偏の「坂」であった)築城に際し加藤清正と共に城造りに関わった田中吉政が築いたものであるため、二つ城の類似性が多く見られる点である…です。

えー、大阪城も、縄張りなどをしていた?
次から次と、ハードすぎます。

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最終更新日 : 2019-03-18

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