FC2ブログ

絵咲木陶器と猫とカフェ日記 そして田中吉政の歴史

猫好き陶芸作家のカフェ絵咲木へいらっしゃいませ・・・

Top Page › 柳川城の歴史 › 蒲池城のお話
2019-01-18 (Fri)  14:55

蒲池城のお話

崇久寺の古文書を原拠とした「蒲池物語」には、「池の城は狭隘(面積などが狭くゆとりがないこと)にして城地の固め完力がれば柳川の堅陣を新に営え其城郭の構え舞鶴に準擬らえ本丸を以って鶴の胴とし、東の方の樋を左の翼とし、西の樋を右の翼とし、肥後道を右の足とし、久留米道を左の足とし、宮永村鳥水を鶴の頭とし、一万町を領しけり」とあるそうです。


いろいろなブログなどには、蒲池の城が、五層の天守閣が鶴の舞ったように見えたからとか、堀の巡らした城が難攻不落の城で「柳川三年肥後三月、肥前、筑前朝茶の子」と戯歌が流行ったと書かれています。


この古文書を読む限り、天守閣をそう呼ばれたのではなく、アスカの地上図みたいに、地上から見たら、元々の蒲池城が東西54m南北38mだったので、柳川の方はちょっと広かったかな…。

鶴が舞っているようだったというのが、だんだん間違って書かれたのでしょうね。


蒲池資料2


まして、この時代は、城には天守閣はまだ作られていません。天守閣が作られるようになったのは、信長の安土城(1585)からだと言われています。

蒲池氏が柳川に城を作ったであろう年は1559年。


湿地帯で堀は、自然の池を上手に利用していたかもしれません。

狭隘にして、は、せまいせまい意味でしょう。

とても攻めにくい城だったことは分かりますね。

樋は、雨水を集め地上あるいは下水に導くための装置、設備。堀ほどのものではなかったかも。

そして、その時の、肥後は?肥前は?筑前は?

最近のブログや書き物には、すっかり、久留米城とか、熊本城とかにすり替わっています。

このころは久留米城もありません。

熊本城も天守閣のあるあの形ではありません。

佐賀も同様。謎解きは面白いですね。

どこかおかしくて、いつかの、何かの書き物から、歴史は曲げられていますね…。


スポンサーサイト



最終更新日 : 2019-01-20

Comment







管理者にだけ表示を許可