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岡崎城の石垣

九月に入ったころから、急に秋っぽくなりました。

あの、40度手前の暑さから、すっかり落ち着いて、今朝などは22度くらいでした。


岡崎市の仲良くして頂いているっていうか、お世話になっている商工会議所の課長さんから、写メが届きました。

岡崎城の石垣の発掘がなされていたのですが、、おおよそ分かっていましたが、今まではっきりとした証拠になる物がなかったのですが、吉政の時代だと分かったようです。

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吉政公の研究が遅れていて、軍着物や、徳川家が書かせたものしかなく、しかもかなり違っていたりして、惑わされっぱなしなのですが、これから一つずつ、実証していきたいと思っています。


先日、吉政の後を継いだ忠政の正室が、徳川(久松)家から来ていることに、少しは気になっていたのですが…。

その女性、これを見ると、(小さくてすいません)、家康の母於大さんが、再婚して嫁いだ先で生まれた家康の弟の娘です。


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右の下の方に田中忠政とあります。

と、言うことは、自分と一緒の於大さんの血を引いた娘を田中家に入れている。

そして、そこに世継ぎが出来なかった。

(12歳の時、疱瘡でで亡くなっています)

そして、忠政が亡くなり、筑後国での田中家は改易、しかし、翌年三男の吉興の娘に養子をもらい再興しました。

その養子息子は、お母さんが徳川家から嫁に来た女性でした。

田中家に、どうしても、徳川の血を入れたかったのでしょうか?

それとも、徳川家の血を入れた、一つの家として使いたかった?

三河岡崎城は、家康の生誕の地。

秀吉の時代、田中吉政は、秀吉からそこを任されます。

難しい国を任せるのは、吉政しかいなかったかもしれません。

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いろんな大名の悩み事を解決したり、

戦のあとの、いろんなところの城の、誰かが城に入封されるまでの城の造作などを任せられ、

秀次の城になったころの清州城や、あの明智光秀が撃たれた後の城の後始末や入るための造作管理。

丹波福地山城とか、殆ど全部、とにかく吉政にいってくれと秀吉に任せられ…。

どんなに忙しかったか…。

他に、居ないの?って思うくらい、秀吉の信頼が厚かった。

でも、今は、義の武将がもてはやされ、

でも、


田中兵部大輔橘朝臣吉政、そこにいながら、関ケ原の戦の前の緊張した時代に、例えば、水野氏を切った西軍の加賀野井氏のお墓を建立してあげたり、


これって、上役(家康)を怖がらず、人の道に沿ったことをして、これこそ義だと思うのですが。


朝鮮出兵の時は、みんなを戻す船を全力で作るために走り回ったり、


矢作川の開削や築堤に力を発揮。

罪人を罰せず、家を与え、西野の荒れ地に松を植えさせ、更生させ、塩造りの燃料にしたり、

彼ほど、人間らしく、戦国時代を駆け抜けた武将は居ない…と、思うわけです。

ふふふ。


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