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柳川城の城は

「地図のなかの柳川」柳川市史地図編より抜粋。


柳川城の縄張り2


寛永四(1627)年頃と比定される「幕府隠密命書」の中に、略図ながらも柳川城の縄張りが記されている。

これを見ると、曲輪配置と近似しており、寛永年間から基本的に縄張りプランが変化していないことを窮わせる。

また、立花氏再入城以後には、管見の限りプランの変更を伴うような大規模な改修の記録は見当たらない。

これらのことを鑑みて、田中氏時代まで遡ることが想定される。

柳川城の縄張り


田中氏時代については、入部当初の柳川城の大改修が、文献史料から確認される。

「田中興廃記」興之巻にも見え、「筑後将士軍談」巻之第四十六にも、記されている。

そして、それらの記述を裏付ける同時代史料として、「慶長七年台所入之掟」がある。

掟の代二十一条から後半部にかけて、天守の作事や天守台、本丸、西之丸、堀などの普請についての具体的な指示が成されている。

指示された普請の範囲は城郭全体に及んでおり、「田中興廃記」等の編纂史料に見られる記述を裏付ける。

つまり、後々、立花氏の時代に描かれた絵図や、城の絵は、田中氏時代に築かれたものだと考えられるってことです。


やっと、ほっとしました…。

ほらね、やっぱり、蒲池氏の頃も、立花氏の最初の頃も、そんなりっぱな城はなかった。

造ったのは、田中吉政でした。


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