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八女市福島八幡宮の土居

うちの店の裏手にある、福島八幡宮さま。


福島八幡宮写真2

この階段の上の本堂のある敷地の高さが、福島城の外堀の土居の高さだったと言うことです。


福島八幡宮写真3

福島八幡宮は、この土居の上に後々作られたのです。


ちなみに、上の写真の石垣、八女福島灯篭人形を見るために、土居と同じ高さを伸ばして、観客席の為に石垣を作っています。


福島八幡宮写真4

元は、この土居が、福島城の外堀を沿って城側にめぐっていたのでしょう。

町並みを抱き込んでの惣曲輪。

国を守っていた土居です。


柳川の本土居を調べていて、思い出しました。

筑後国福島城にもあったはず…と。


福島八幡宮写真5

福島城の土居は、ここの他に堀江八幡宮さまと、無量寿院の鐘突き台が、そのままの高さを使っているとのことです。


福島八幡宮写真6

柳川城の堀が、土居に伴って作られているので、思い出しました。福島城も、そうでした。


福島八幡宮写真7

福島城は、筑後国の柳川本城の時支城としては、一番規模が大きかったのです。



この土居付きの堀、他の国の城には、私はまだ聞いたことがない。(勉強不足です)


最前の狛犬さん。


狛犬さんたちが、最初にお出迎え。


福島八幡宮写真9

階段の下にいます。

福島八幡宮写真10


そして、本殿の前の狛犬さんたち。


福島八幡宮写真8


福島八幡宮は、このジオラマ(八女伝統工芸館にあります)だと、右下あたりが神社の位置です。

福島八幡宮写真12


これ、余談ですけど、福島八幡宮の狛犬さんは、三揃い居ますけど、一対が、本殿の右と左の側面壁をガン見しています。

いつの時代かに、何があったのでしょう?

拝殿の右側。

福島八幡宮写真13


本殿の左側。


不思議な配置。


福島八幡宮写真11

グーグルマップで見てみると、拝殿の後に少し小さい建物が。

福島八幡宮写真


この建物が昔の拝殿、本堂だとすれば、狛犬の位置は、ちょうどいい場所だと分かります。


増築されたのでしょう。

納得しました。

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柳川の城下町をウオーキング

今日は、朝9時半から、まちづくりネットワーク柳川主催の「健康.文化ウォーキング」に参加してきました。


ウオーキング


まだ、雪が残る道をお昼まで、あちこち説明を聞きながら歩く。


お馴染みの、田中吉政公の菩提寺真勝寺さま。

知ってますが、ちゃんと説明を聞きましたよ。


ウオーキング6


皆さん、人生の先輩方が多く、足腰強くて感心しました。


ウオーキング五

気づけば、いつの間にか最後尾です。

ここは、鋤﨑土居といいます。

上の写真は、土居が坂になっている様子が判ります。

下の写真で、左側が土居です。


ウオーキング四




土居の名残で、左側が盛れていますね。


堀が数メートル狭くなって、道になっています。


堀は、もっともっと広かった…。


ウオーキング⒊


観光客が、こたつ船で船下り。


ウオーキング2


いつも歩かない場所、発見が楽しい時間でした。


岩戸山歴史資料館で、山城のお勉強

岩戸山歴史資料館の、岡寺良さんの歴史講座、行ってきました。

岡寺さんは、九州歴史資料館の学芸員さんです。江崎は、ときどきお話を聞いたりしてお世話になります。


岩戸山


途中、地震で、ゆらゆら、皆さんちょっと心配しましたが、大丈夫で、続行。

主に、山城のお話でした。九州の分布図の話の時、「筑後国は、一国を治めたのは田中吉政だけです」と言われたので、少し嬉しかったです。

そうですと、こっくりとうなづきました。

外は、今も雪が降っております。

田中吉政公ご命日法要予定

2月18日は、田中吉政公のご命日です。

毎年、その前後で、田中吉政顕彰会の法要と総会が行われ、その催事として、八女福島文平座公演で、真勝寺を訪れます。

今年は、2月17日(日)に決まりました。


11時頃からの、総会後となりますが、真勝寺本堂にて、真勝寺さまと、顕彰会のご好意で、一般の方も入場できますので、皆さんおいで下さい。

田中吉政像

今年のお芝居は、角倉了以と、田中家三男の福島城主田中吉興が中心となり、運河の夢を語ります。

真勝寺3


絵咲木も、ずいぶんとこの歴史にのめり込み(笑)、詳しくなったとうれしく思います。


真勝寺

それに伴ってもいろんな方と知り合い、親しくなり、良い人生だと感謝しています。

ま…、決別もあるわけですが…。

還暦も、とうに見送り、あとどれくらい自分の思うように行動できるのかと、心が引き締まります。

前を向くしかないのです。

柳川城、今日は真勝寺土居を歩く

天気が良いので、柳川に。

はい、またです。

今日も、日吉神社からの、まず殿にご挨拶して、

広いわ、柳川城下。

柳川城下田中吉政銅像

本丸跡の出前を左に曲がり、寺跡を妄想しつつ歩き、日吉神社の参道に戻り、ストリートビューで見ていたら風景を自分の目で確かめ、和菓子のとらやさんに入り、ご主人と奥さまと世間話。

日吉神社参道3

日吉神社参道2


日吉神社参道

そこから、市役所側に曲がり、真勝寺方向へ。

真勝寺に入らずに、そのまま直進。

柳川城堀

小さい可愛いカフェでお茶して、

城の外堀の外の土居を眺めて来ました。


右側が、真勝寺の裏になります。


柳川城堀2


突き当り、奥の方が土居です。

柳川城堀3

ここが、城の南東の端です。

この土居は、柳川城の東大手瀬高御門より真勝寺の南に続く藤吉、今古賀の土居として江戸時代には、柳川城惣曲輪の「外曲輪の土居」といわれた貴重な遺跡です。


「「柳川城沿革」によると、瀬高御門北の際から北の角まで424間(763m)、鋤崎東の角北側から井手橋門の際まで353間(635m)、外曲輪土居の総合計7163間(12893m)、すなわち、3里11町23間とす」


柳川城堀4

豊臣秀吉が、京都に御土居を作った…、一緒に見た経験がある吉政公です。

その土居、そんな感じでしょうか。


地図のなかの柳川

柳川城の絵地図をこれで見てみました。


この箱の中に、古地図の複製がいっぱい。

柳川絵図2


立花氏の時代の絵地図ですが、ほぼ、体制は変わっていないそうですので、規模は同じ。

田中氏の時代に、作られたということです。


広い、広いぞ、柳川城!

この間行ってきた日吉神社、坂本町、見えます。

きゃー。

柳川絵図


いつも、しつこく歩いている道、残っているのですね。

柳川城下


堀の幅が書いてありますが、わからない字を崩し字検索で調べたら五のようでした。


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これで、当時の堀の幅が分かります。

なんだか、うれしいです。


柳川城の歴史

「旧柳川藩志」第一節城内村分
坂本町の日吉神社の項

柳川藩志


…柏原天皇御宇文亀永正の頃、三潴郡蒲池筑後守治久社村の地内に一城砦を築き柳川城と名つけ、この鎮護神とす。依って社領53石を寄付す。と、ある。


柳川藩志2

やはり、その蒲池氏の頃の柳川城は、砦の規模だったのね。


蒲池城のお話

崇久寺の古文書を原拠とした「蒲池物語」には、「池の城は狭隘(面積などが狭くゆとりがないこと)にして城地の固め完力がれば柳川の堅陣を新に営え其城郭の構え舞鶴に準擬らえ本丸を以って鶴の胴とし、東の方の樋を左の翼とし、西の樋を右の翼とし、肥後道を右の足とし、久留米道を左の足とし、宮永村鳥水を鶴の頭とし、一万町を領しけり」とあるそうです。


いろいろなブログなどには、蒲池の城が、五層の天守閣が鶴の舞ったように見えたからとか、堀の巡らした城が難攻不落の城で「柳川三年肥後三月、肥前、筑前朝茶の子」と戯歌が流行ったと書かれています。


この古文書を読む限り、天守閣をそう呼ばれたのではなく、アスカの地上図みたいに、地上から見たら、元々の蒲池城が東西54m南北38mだったので、柳川の方はちょっと広かったかな…。

鶴が舞っているようだったというのが、だんだん間違って書かれたのでしょうね。


蒲池資料2


まして、この時代は、城には天守閣はまだ作られていません。天守閣が作られるようになったのは、信長の安土城(1585)からだと言われています。

蒲池氏が柳川に城を作ったであろう年は1559年。


湿地帯で堀は、自然の池を上手に利用していたかもしれません。

狭隘にして、は、せまいせまい意味でしょう。

とても攻めにくい城だったことは分かりますね。

樋は、雨水を集め地上あるいは下水に導くための装置、設備。堀ほどのものではなかったかも。

そして、その時の、肥後は?肥前は?筑前は?

最近のブログや書き物には、すっかり、久留米城とか、熊本城とかにすり替わっています。

このころは久留米城もありません。

熊本城も天守閣のあるあの形ではありません。

佐賀も同様。謎解きは面白いですね。

どこかおかしくて、いつかの、何かの書き物から、歴史は曲げられていますね…。


柳川城の天守閣を作ったのは誰?

先日から、追跡している件。いったいどこで、完成形の柳川城が、蒲池氏や立花氏が作った城だと、間違ってしまったか?

田中家が改修しただけにとどまってしまったか?

本屋さんで、ついに発見してしまった。

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この本を見たら、確かに、「白秋が言った言葉のように蒲池城の堀割は、3重に廻り…など、柳川三年肥後三月、肥前、筑前朝飯前で誰も落とせなかった」とか書いてあった。

以前、福島城の事を書いてあったある人のブログに、「福島城には天守閣は無く、粗末な屋敷しか無かったので、八女市長が、その人にどんな城か尋ねて来たので、そう言ってやった。ふるさと創生のお金で城を作ろうと思ったらしいが、無駄なことをしなくてよかったよ」と、書いてあったのを読みました。

三重の天守閣があったのに、その郷土史家は、そう市長に言ったと誇ってブログに書いてあるのです。

今、もし、福島城がセメント作りでも何でも建っていれば、どれだけいいかと思います。

話を戻すと、この本がまだ、出回っているので、これを資料にして、ブログに書いたりすることで、そういう件が出回ってしまうのだな…と思います。

小説ならまだしも、田中家の時代を知らなすぎです。

今からでも、その時代の各々の技術の真実を書いてほしいと切に思います。

穴太衆でなければ、あの石垣も、堀割も無かったかもしれません。穴太衆でさえご存じないでしょうね…。

柳川城の城は

「地図のなかの柳川」柳川市史地図編より抜粋。


柳川城の縄張り2


寛永四(1627)年頃と比定される「幕府隠密命書」の中に、略図ながらも柳川城の縄張りが記されている。

これを見ると、曲輪配置と近似しており、寛永年間から基本的に縄張りプランが変化していないことを窮わせる。

また、立花氏再入城以後には、管見の限りプランの変更を伴うような大規模な改修の記録は見当たらない。

これらのことを鑑みて、田中氏時代まで遡ることが想定される。

柳川城の縄張り


田中氏時代については、入部当初の柳川城の大改修が、文献史料から確認される。

「田中興廃記」興之巻にも見え、「筑後将士軍談」巻之第四十六にも、記されている。

そして、それらの記述を裏付ける同時代史料として、「慶長七年台所入之掟」がある。

掟の代二十一条から後半部にかけて、天守の作事や天守台、本丸、西之丸、堀などの普請についての具体的な指示が成されている。

指示された普請の範囲は城郭全体に及んでおり、「田中興廃記」等の編纂史料に見られる記述を裏付ける。

つまり、後々、立花氏の時代に描かれた絵図や、城の絵は、田中氏時代に築かれたものだと考えられるってことです。


やっと、ほっとしました…。

ほらね、やっぱり、蒲池氏の頃も、立花氏の最初の頃も、そんなりっぱな城はなかった。

造ったのは、田中吉政でした。


筑後国柳川城

最近、城好きな人のサイトや、ウキペディアなどに、柳川城の事を書いてあるのを見ると、とても残念です。

なぜなら、彼らは、柳川城は、蒲池氏の時代文亀年間(1501年から1505年)に築城し、すでに「柳川三年、肥後三月、肥前、久留米は朝茶の子」と言われたと書いてある。

天守閣を見て、舞鶴城などと呼ばれたと。1501年は、どんな時代か、どのような城が築かれたか知っていますか?

長浜城だって、1573年に築城ですよ。

岡崎城だって、吉政が天守閣を造る前は、土塁に櫓が建っている程度だったそうです。

天守を構える時代は、1501年よりずっとあと。ずーーとあとです。

城もそうだけど、堀のことも、すでにあって吉政公が改修した、その程度にかいてあります。

柳川の城は、
「織豊系の縄張りを技術ふんだんに用いて構築されたことが明らかである。同時にその縄張りは、複雑化した織豊系縄張りが簡略・形骸化に向かう慶長後期の傾向を先取りした、最先端の縄張り的展開を見せたものであったと評価できる。」(城郭の縄張り構造と大名権力 小島孝之著の田中領本城柳川城の項)です。


おいおい…、その蒲池氏の時代の蒲地本城は東西約54m南北38m。

湿地帯の中に作ったでしょう。それは、攻めにくかったかもしれませんよ。

でも、城はというとその時代の方形居館。

みなさんは、地元の書かれた「南筑明覧」と「蒲池物語」に惑わされています。

豊臣秀吉の長浜城が出来たのが1574年。

1501年って、なんで、そんなすごい城が、その時代ある訳ないと思わないのか…へこんでしまいます。


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天守閣も、田中の時代に造ったとされているのに…。天守閣も、三重の堀もない城を舞鶴城とは言わないでしょう?

水門を開ければ、攻めた側、城の外が水攻めに合う、そんな城を造ったのは田中吉政公です。

誰か、間違い、またそれをそう思ってしまって、書いてしまった伝言ゲームが発生したのでしょうか?

近江国や、岡崎などを調べていて、まさか地元がこうなっちゃっているなんて、気づいて、がっかり。

さて、さて…。対策を考えねば。

地方の小さな国の集合体だった筑後国に、中央からやって来た、城や石垣のスペシャリスト、秀吉の直属で清州城、丹波国の各城、伏見城、近江八幡城、岡崎城、数え切れない城の縄張りを監督してきた田中吉政公の本当の姿を、もっと知るべきではないでしょうか。


柳川に、お正月のご挨拶

お天気が良かったので、久しぶりに、柳川を歩いてきました。

筑後国主田中吉政公に、お会いしてきました。

田中吉政像


初代筑後国主、この官職は、吉政公だけが名乗ることのできるものです。

田中吉政像二


日吉神社の裏手になると知ってはいたのですが、久しぶりの事で、わざわざ遠回りになってしまいました。日吉神社の前を右側に曲がり、次の道を左に回り込み、左。

すると、吉政公の後ろ姿が見えてきましたよ。


田中吉政像散策三


柳川市坂本町16-10番地に、立っておられます。


掘割に着いて、船下りの人達を眺めて、

船頭さんが、吉政公の説明をあっさりと「城と堀を作った人」だといったので、

「32万5千石なんだよーー!」と叫べば、船頭さんが、

「助手がそう言っています!」

お客さんが、大笑い。

てへへ。

田中吉政像散策五

水面の見て、左に遊歩道が見えたので、どこまでかいけるだろうと歩いてみました。

すると、日吉神社の駐車場側の堀端にでました。

日吉神社

一周回って来てしまいました。

さっき、一度お参りしましたので、逆写しで。


日吉神社二


大きなお多福さんのお面の口をくぐります。

日吉神社六


ということは、この神社に車を止めさせてもらって、堀端の遊歩道を歩けば、すぐってことでした。

田中吉政像散策四

この地域は、坂本町。

近江(今の滋賀県)から、吉政公に頼って、たくさんの人が移住してきました。


また、次の機会に書きますが、近江国上坂村の順慶寺の和尚さん(宮川氏)が、檀家24家族、友達も引き連れて。吉政公を慕ってやってきたのです。

もともと、日吉神社の総本社が近江国坂本(今の滋賀県大津市坂本)にあり、そこから村頭が勧請したと言われていて、それにちなんで、坂本村となったと言われています。

そして、ここは城の内。

近江国の人々で、賑わったことでしょぅ。



最近のみかんちゃん

最近のみかんは、自宅で伸び伸びやっています。


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数年前にココちゃんも先に行ってしまったし、同年代の黒猫コルトと、時にはシャーフー言ったりですが、薪ストーブの前であったかく過ごしています。


お店組みのハチ君サク君に比べると小さいけど、ミカンだけ見るとそうでもない。

でも、年のせいか、少し痩せたかなぁ…。

長生きしてね。


甘えっこは、相変わらず。

かまってちゃんも、相変わらず。

元気です。




広川町吉常八幡宮

自宅の近くにある、吉常八幡宮まで、お正月のお参りに出かけました。


この地域の守護のため作られたみたいですね。


階段を上って振り向くと、吉常の地域が見渡せます。

吉常八幡宮


とても、綺麗に整備されていましたよ。

江戸時代頃のことは、よく分からないらしい。


吉常八幡宮狛犬

狛犬さんが、三対も並んで可愛いです。

清々しい気持ちになりました。

新年2019

明けましておめでとうございます。

昨年より何につけても、今はただ、寺に終わり、寺に始まる江崎でございます。

大晦日、昨年同様、北野町の西方寺さまで、除夜の鐘を突きながら、年越ししました。


2018年末鐘突き西方寺


近世の歴史を調べていて、その時代が、お寺の日々の流れによって作られた部分もあり、どうしても、寺の史料を紐解かねばなりません。それは、長浜、近江八幡、岡崎、筑後の国の広範囲に広がり、すでに間違った言い伝えに毒されておることが多いのです。

たくさんの歴史を好きな人がそこを訪れるも、ブログやFacebookに手近な資料を書き移す。それは、四百年前から、同じようなことが繰り返されています。

そんな、大海原でチャプチャプと、知識のない江崎は筏に乗って漂うのと同じようなもの…、と、時々卑屈になったりして。
でも、誰もしない隙間歴史なら、私しかやる人はいないのならやらねばならないと、また、拳を握りしめ思うのです。

世界の真ん中で愛を叫ぶ!(古っ)
アナタガスキダカラー(笑)

初代国主田中吉政公お慕い申しあげそうろうゆえ…、に、尽きる元旦。

今年も、そんな江崎を許せる方、見守りたい方だけお付き合い下さい。

うざいと思われる方は、バッサリとお切り下さいまし。最近は、何だかお商売になるかもしれないと申請されて来る人もいますが、私と繋がっても儲けないからね。

切られても、あら?友達でなくなっている…と、ずいぶん後になって気づくくらいだか、大丈夫です。

今年は、本音で生きましょう…、そう思う絵咲木です。


あ、猫たちは、元気です。