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慶長本土居みやま市最終地点

慶長本土居の続きです。


今日は、みやま市の最終地点。

大川の酒見から出発した慶長本土居のみやま地区は、江浦小学校の右を通り、江浦駅の踏み切りを渡り、綿津見神社、高田漁協、楠田川の橋を渡り左岸に沿って進み、四十丁、五十丁の集落をクリーク沿いの道を進み、開小学校の左をまっすぐ進むと隈川の左岸につながります。


この川を途中で渡って川沿いに東に進むと、この場所、大牟田倉吉とみやま市渡瀬の境界地点、国道208号の干渡橋の袂が、終着点です。


慶長本土居最終地点


「田中吉政・忠政とその時代」の著者半田隆夫先生は、「慶長本土居の築堤政策は、有明海沿岸の干潟の新田開発によって領土を拡大し、年貢収入を増加させ、藩財政を豊かにすることが考えられます。


しかし、関ケ原の戦い後に、筑後を舞台に展開された八院の戦いなど、いつ、再び領土争いが起こってもおかしくない世相でしたので、有明海からの海上攻撃の防衛上、本土居を築堤したものと思われます」と、述べています。




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柳川の城下町をウオーキング

今日は、朝9時半から、まちづくりネットワーク柳川主催の「健康.文化ウォーキング」に参加してきました。


ウオーキング


まだ、雪が残る道をお昼まで、あちこち説明を聞きながら歩く。


お馴染みの、田中吉政公の菩提寺真勝寺さま。

知ってますが、ちゃんと説明を聞きましたよ。


ウオーキング6


皆さん、人生の先輩方が多く、足腰強くて感心しました。


ウオーキング五

気づけば、いつの間にか最後尾です。

ここは、鋤﨑土居といいます。

上の写真は、土居が坂になっている様子が判ります。

下の写真で、左側が土居です。


ウオーキング四




土居の名残で、左側が盛れていますね。


堀が数メートル狭くなって、道になっています。


堀は、もっともっと広かった…。


ウオーキング⒊


観光客が、こたつ船で船下り。


ウオーキング2


いつも歩かない場所、発見が楽しい時間でした。


柳川城、今日は真勝寺土居を歩く

天気が良いので、柳川に。

はい、またです。

今日も、日吉神社からの、まず殿にご挨拶して、

広いわ、柳川城下。

柳川城下田中吉政銅像

本丸跡の出前を左に曲がり、寺跡を妄想しつつ歩き、日吉神社の参道に戻り、ストリートビューで見ていたら風景を自分の目で確かめ、和菓子のとらやさんに入り、ご主人と奥さまと世間話。

日吉神社参道3

日吉神社参道2


日吉神社参道

そこから、市役所側に曲がり、真勝寺方向へ。

真勝寺に入らずに、そのまま直進。

柳川城堀

小さい可愛いカフェでお茶して、

城の外堀の外の土居を眺めて来ました。


右側が、真勝寺の裏になります。


柳川城堀2


突き当り、奥の方が土居です。

柳川城堀3

ここが、城の南東の端です。

この土居は、柳川城の東大手瀬高御門より真勝寺の南に続く藤吉、今古賀の土居として江戸時代には、柳川城惣曲輪の「外曲輪の土居」といわれた貴重な遺跡です。


「「柳川城沿革」によると、瀬高御門北の際から北の角まで424間(763m)、鋤崎東の角北側から井手橋門の際まで353間(635m)、外曲輪土居の総合計7163間(12893m)、すなわち、3里11町23間とす」


柳川城堀4

豊臣秀吉が、京都に御土居を作った…、一緒に見た経験がある吉政公です。

その土居、そんな感じでしょうか。


地図のなかの柳川

柳川城の絵地図をこれで見てみました。


この箱の中に、古地図の複製がいっぱい。

柳川絵図2


立花氏の時代の絵地図ですが、ほぼ、体制は変わっていないそうですので、規模は同じ。

田中氏の時代に、作られたということです。


広い、広いぞ、柳川城!

この間行ってきた日吉神社、坂本町、見えます。

きゃー。

柳川絵図


いつも、しつこく歩いている道、残っているのですね。

柳川城下


堀の幅が書いてありますが、わからない字を崩し字検索で調べたら五のようでした。


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これで、当時の堀の幅が分かります。

なんだか、うれしいです。


柳川城の歴史

「旧柳川藩志」第一節城内村分
坂本町の日吉神社の項

柳川藩志


…柏原天皇御宇文亀永正の頃、三潴郡蒲池筑後守治久社村の地内に一城砦を築き柳川城と名つけ、この鎮護神とす。依って社領53石を寄付す。と、ある。


柳川藩志2

やはり、その蒲池氏の頃の柳川城は、砦の規模だったのね。