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たち花のつし

まだまだ暑い日が続きます。

ハチ君とサク君は、暑いのにしっかりくっついて..、。

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17日に大木町へ出張陶芸教室に行ってきました。

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たまたま絵咲木のカフェをご利用頂いて、ご縁が繋がりました。

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先日、三潴町のお芝居公演も見に来て頂き、感謝です。

教室には、飛び入り参加の男の子が、場を和ませてくれました。

そして、大木町福祉関係の職員さんが参加してあり、来年度のお仕事の依頼がありました。

お店に戻ると、相変わらずの歴史のモードに。

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かねてからの、滋賀県高島市安曇川の地図の下書きを書いてみました。

ここから、いつものように、書き込んでいける本地図を書きます。

午後、八木書店さんから、本が届きました。

「兼見卿記 第一」と「お湯殿の上の日記 〔7〕」どちらも、同じ時代頃のもの。

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吉政が生きた時代の一こまの日記です。

お湯殿の上の日記 〔7〕には、吉政の娘の夫、大外記中原師廉の娘を宮廷に入れることの記述があります。

天正8年〔1580〕の2月4日の項
たち花のつしのけきもろかとむすめこのほと宮の御かたにさふらはる..

この時吉政の孫娘にあたる師廉の長女は3歳くらいでしょう。

濁点が全くないので、それらしいところに濁点を当てはめて読みます。

長男の師生はその後の1581年に生まれています。

ここの文章から分かることは、長女が家系図では、師生の下に書かれていますが、お姉ちゃんだったということ。

当時は、見習い女官として幼くして出仕することもあったようです。

王親町天皇の頃の誠仁の官女となったのですね。

もうひとつ、「けき」は、大外記の役職のことでしょう。

「たち花のつし」が、橘の意味なのか?つしはづしかつじか?

師廉は橘姓ではないけれど、吉政の橘を意識したのか?

謎です..。

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性空上人系図

橘氏のお一人性空上人のことを詳しく書いてありましたので、兵庫県飾磨郡夢前町寺の通宝山彌勒寺 のホームページからお借りしました。


性空上人は京都の人、姓は橘、名は善行または方用という。父は従四位下前美濃守橘善根で上人はその次男として生まれ、母は源氏の流れをくむ保津姫。

 この橘姓は敏達天皇の子、難波皇子より出た盛族で、その系図に見るに難波皇子の子、栗隅王は天智天皇落飾後、壬申の乱の時の太宰師となって筑紫に渡り当時の寇の警備にあたり知勇の将といわれている。

 その栗隅王の子、美努王は、懸犬養橘宿禰の娘三千代を嫁とし葛城王を出生し、天明天皇和銅元年に三千代は天皇の招待をうけ供奉した時、天明天皇が喜ばれ、その時、酒杯に橘を浮かべ頌賜された。

 天平八年に葛城王、聖武天皇に奉請し、母姓を橘宿禰を賜り諸兄を称す。

 天平勝宝二年正月、孝謙天皇より橘朝臣を賜る。大臣贈従二位栗隈王の孫、従四位下美努王の子にして、左大臣正一位となり、藤原氏と権勢を争う。橘諸兄の子奈良麿、君側を清めんとしたが破れて死す。
一時勢いを失うも、奈良麿の子清友の娘、嘉智子が嵯峨天皇の皇后となり仁明天皇を産む、これより再び振るい、のち源平籐橘の一角を成す。
 皇后は信心厚く檀林寺を建立し、世に檀林皇后と呼ぶ、また嘉智子の弟、右大臣氏公とともに学館院を建てて子弟を教育する。

その後藤原氏が朝廷を担当するに及び橘氏は近畿、四国、東北地方の国司に就任するにあたった。

性空上人の一族に橘伊伝、橘則光等がある。

また、奈良麿の子入居は延暦年中に正五位播磨守に、清友の逸勢は入唐して橘秀才と呼ばれ嵯峨天皇、弘法大師と並び三筆の能筆家である。

性空上人は清友の兄、島田麿~有主~善根に至り、しかるに性空上人は諸兄より数えて六代目にあたる。承平六年、十歳の時元服し従五位に叙位さらに春宮大夫に任命された。

以上です。

性空上人の系図など

そこから、田中家に続く流れが見えます。