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筑後国運河計画

⒍月21日に、久留米市まちゼミの歴史講座のお手伝いに行って来ました。

場所はクホン。

田中さんの講演の合間に、三場面のお手伝い。

5月に工芸館でやったものと同じものです。

久留米まちゼミ


好評で、次は8月の夏休みこども講座に要請がありました。

段々と、広まりつつある、田中吉政歴史講座です。

私たちも、学びながらの日々。

26日には、柳川の水の会のメンバーさんと、筑後運河計画をお勉強。

講師は、古賀久隆さん。

教師を退職後、柳川でボランティアガイドをしておられるそうです。


運河計画⒏

柳川城と、掘割は、やはりすごいです。


運河計画七


それは、吉政公の作った城と掘割。


運河計画一


なるほど、メモメモと、更なる関心と感心。

奥が深いです。


会場となった船下りと、ウナギの食事処大東エンタープライズの社長さんが、「お慕い申し上げ…」と「田兵」をたくさん買い取って頂きました。

店頭で販売して頂くそうです。

有難うございました。


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九州歴史史料館の企画展へ

九州歴史史料館の企画展に行って来ました。

「福岡県の城 戦国乱世の城から幕藩体制の城へ」

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以前、私の住む筑後国福島のことを聞きに来て、お世話になった学芸員の方の企画展です。

写真は禁止なので、吉政の時代展の時の鯱君の写真ですが、久しぶりに会ってきましたよ。

五月ぶりです。


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~12月3日までの期間ですので、行ってみて下さい。

福島城の古地図も展示されていました。

思ったより大きかったです。

絵咲木は、最近、2時からの営業にしていました。

なかなかランチのお客さんに対応が思うようにできなくて(なかったり、大勢だったり)、気持ちがついて行かなくて…。


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でも、看板を書き直したり、のれんを出していなく、準備中の札をしていても、だれも関係なく入って来られて…。

鍵かけているわけも行かず、

ま、負けちゃいました。


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対応したら、結局一緒だね。


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それで、仕方なく、2時の処に1を書き足して、12時からにして頑張ります。

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結局、頑張るしかないね。

以前は、11時からにしていたから、少しだけ、緩くってことで。

宜しくお願いします。



田中吉政 京都の旅

京都に行って来ました。

田中吉政を訪ねてめぐる旅です。

もう、何度訪れたでしょうか。

今回は、人と会う旅と、お墓参り。

豊臣秀次の菩提寺、瑞泉寺です。

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和尚様と、ゆっくりお話ができました。

そして、豊臣秀吉の奥さん、ねねさんの高台寺へ。

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寺内の美術館に豊臣秀吉の肖像画があるので、寄ってみましたが閉館日。

まあ、年に一度くらいしか展示しない国宝級だそうで、まだ見たことがありません。

この肖像画は教科書に載っている、皆さんがよく知っているものですよね。


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あれは、秀吉が亡くなった後、ねねさんを慰めるために田中吉政が絵師に描かせて持って行ったものだと、高台寺のスタッフさんが話してくれました。

えへへ、知っているから来たのですよ。

国の重要文化財に指定されていますよ。

高台寺も、「非公開文化財特別公開」中でした。

それで、思いがけずねねさんのお墓参りもできました。

こんな感じですね。

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そして、このお堂がねねさんのお墓で、下に埋葬されているそうです。

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そして、田中吉政のお墓参りに、京都金戒光明寺に行きました。

本堂の左隣、ひときわ大きく、一番前にあります。

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管理されている塔頭の西翁院さんでは、「非公開文化財特別公開」中でした。

事前に連絡をして、特別に和尚様にお位牌を見せていただきました。

お話では、お墓の場所は公家の区域だと言われました。

「素晴らしい宝篋印塔です。

三枚の返り花も良い感じです。

宝篋印塔は笠の耳の角度でどの時代かある程度わかります。」と帰ってきて、フェイスブック繋がりで教えていただきました。

田中吉政の歴史は何か、一般的に知られていること以外に、まだ謎があるようです...。

京都で亡くなったので、本堂で葬儀が営まれたあと、西翁院の隣の塔頭がしばらく管轄し、その後西翁院に託されたと言ってありました。

そしてその後、柳川市の真勝寺を菩提寺としました。


「田中吉政公お慕い歴女隊」としては、感動の京都でした。

traveljpというサイト

traveljpというサイトが、とてもよく書かれているので、そのまま写させてもらいました。


ライターさん、すごく勉強されていますね。

福岡県柳川市。縦横無尽に走る掘割をどんこ船で進む川下りで有名です。また、柳川藩は九州きっての名将・立花宗茂を藩祖とすることでも知られ、明治維新まで柳川を治めた立花家を別邸の御花などで偲ぶことができます。

柳川藩の中心であり、立花家の本拠であった柳川には無論、城がありました。屈指の堅城でしたが、現在は街に埋没してしまっています。そこで、今回は名城・柳川城の痕跡を探してみることにしてみましょう。

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写真:小谷 結城

柳川城は本丸と二の丸を内堀で囲み、本丸の南に三の丸、西に西三の丸、北に北三の丸を設け、これをさらに中堀で囲んでいます。この外側は城内。城内をさらに外堀で囲み、この外にある城下をさらに2つの川で挟んで間を運河で繋げることによって囲んでいます。すなわち、柳川城は4重の堀に囲まれていました。

また、背後は有明海。有明海の干満差は4メートルともいわれ、潮の流れが激しく、川から一気に海に出てしまうこともできました。攻めにくく、守りやすいのです。この城を改修・整備して現在の縄張にしたのは、奇跡の所領復帰を果たした宗茂ではなく、その間の柳川を統治した田中吉政でした。

吉政は武将でありながら複数の都市の町割も行った、いわば“まちづくりの名手”でした。彼は水辺や川を活かした城づくり、まちづくりをよく行っており、柳川はまさに彼の集大成ともいえる作品だったのです。

写真は2つの川を結んだ運河です。柳川橋が架かり、三柱神社が隣接する掘割のことです。柳川は掘割が丸ごと残されたおかげで水堀にあたる掘割もほとんどが残りました。この点は、構造物がほぼ消えてしまった柳川城にとって不幸中の幸いだったと言えるでしょう。

柳川城防衛の鍵!「柳川城堀水門」

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写真:小谷 結城

運河を南に下ると、柳川城堀水門があります。水は北を流れる川から取水して、ここより外堀、中堀、内堀に水を引き入れています。この水門が城内に入る唯一の水門で、有事の際はこの水門を閉め、川の上流の堤防を切り崩して水を流すと、城内、柳河(城下の町場)、宮永(城の南)を残して周辺は水びたしとなり、全く島のような状態になるのです。

水びたしになれば、柳川は元々、低湿地帯。周囲に残る湿地では足を取られ行軍が困難となり、張りめぐらされた大小の掘割は、誤って落ちると溺死してしまう攻撃的な防御施設に変身します。まさに、水を操って城を守る柳川城防衛の鍵がこの水門だったのです。

風情ある中堀


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写真:小谷 結城

本丸と二の丸を囲む三の丸、西三の丸、北三の丸。これら3つの曲輪を囲んでいたのが中堀でした。黒門橋の架かる東側は直線ですが、その他3方は折れが見られ、防衛機能を高める意図が感じられます。これは西側に本丸があったからでしょう。

写真は中堀の西三の丸側で、堀の奥が西三の丸、手前が城内(捨曲輪)です。捨曲輪とは西の沖端川から侵攻する敵を迎え討つ場のことです。この堀に沿った遊歩道は詩人・北原白秋が学生時代に通学路にしていたことから「白秋道路」と呼ばれています。堀が屈曲していることで風景に変化があり、どんこ船の往来も楽しめます。

なお、天守閣のあった本丸は柳城中学校、御殿のあった二の丸は柳川高校。わずかながら柳川城の石垣も見られます。


最後は運河沿いの三柱神社です。初代藩主・宗茂、その父で初代当主・道雪、妻の誾千代の3柱を祀ることからこの名があります。天明3(1783)年に7代藩主・立花鑑通(あきなお)が柳川城内三の丸の長久寺境内に社を建立し道雪を祀ったことが始まりで、文政9(1826)年に9代藩主・鑑賢(あきかた)によって現在地に移されました。

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さて、柳川城の痕跡は境内に向かう朱塗りの反橋にあります。遷座の同年に架橋されたもので、擬宝珠は柳川城の二の丸と三の丸を結んだ橋のものなのです。擬宝珠をよく見ると「柳川城之橋也」と刻まれた文字も見られます。

石垣や堀、土塁が残っていることは多いですが、擬宝珠が残っており、今も実際に使われ、直接触れられるのは貴重なことでしょう。思いがけない形で城の痕跡に出合えることに感慨を覚えます。

柳川には田中吉政と柳川城が欠かせません

いかがだったでしょうか。柳川観光はとかく北原白秋や立花宗茂らにスポットライトが当てられますが、実は白秋が愛でた掘割も、宗茂が居城とした城も、宗茂が所領を没収されたのちに柳川に入部した田中吉政によって造られたものなのです。

吉政は豊臣家の忠臣として秀次を補佐。関ヶ原の戦いでは東軍・徳川方に属し、石田三成捕縛の功を上げ、筑後国32万石の大名となりました。吉政は領地の整備、統治機構の構築、農業生産高向上に腐心しましたが、吉政の後を継いだ2代・忠政が後継ぎを残さず若くして亡くなってしまい、田中家は無嗣嫡子で改易。ここに宗茂が復帰するわけです。

吉政によって築かれた柳川城は前述の通り。城下町も現存する町名から往時を偲ぶことができます。吉政の築き上げたものにも目を配って柳川を歩けば、柳川観光はより一層楽しいものになるでしょう。


traveljpは、これです http://guide.travel.co.jp/article/21843/

柳川城のこと

フェイスブックにも吉政公のことを書いています。


昨日もらったメッセージがお勉強になりますので、載せておきます。


九州の、加藤家、田中家は、初めから改易と徳川幕府は、決めていたと思われます。何故ならば、両家共豊臣大名の中でも重臣中の重臣九州の中央部を両家におられては、後先幕府にとっては、心配の種になるからです。改易後どの大名を入れるか?の時元柳川藩立花宗茂公が、義の武将で元の場所に(柳川)に戻してやれば幕府に尽くしてくれると考えたからでしょう!

柳川に戻られた宗茂公は、柳川は、元より筑後国の変わりようにさぞ驚かれた事でしょうね。柳川から横浜までの距離がある掘割。
土塁を高くして五層の天守閣を造営(今でも高い建物を建てる時は、コンクリートパイルを深く打ち込まなければならない程の湿地帯)
有明海の干拓(慶長本土居)筑後川と矢部川を結ぶ運河(花宗川)の開削
柳川〜久留米の街道通称田中道(現在の県道柳川線)筑後川の直流化(久留米瀬の下開削)等数々の田中吉政公の功績です。この仕事をたったの20年でやっておられます。本当に凄い人です。


おぉーすごいです。

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宗茂公が、柳川に戻られた時絵師に書かせた柳川城の絵です。
復元したいものですね。

美しいですね。(*^^*)

別名舞鶴城と言われています。
吉政公が、柳川に入る前の柳川城は、蒲池氏が蒲池城の支城として建てた城です。又田中家改易後、筑後国は、久留米藩と柳川藩の二つの藩に分かれ久留米藩が21万石柳川藩が、10万9千石三池藩が、1万石計32万9千石になります。
田中時代が、32万5千石なので田中時代で4千石石高を増やした事になりますね!やはり凄い武将ですね


おぉー、ワンダフル。