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木曽川の堤普請と田中吉政

天正18(1590)年、豊臣秀吉は、関東の北条氏を制圧し、同年7月に新たに諸大名の大幅な配置替えを行った。

その年、吉政は岡崎城主になった。

豊臣秀次は尾張を領するが、引き続き奥州に出陣していたため、尾張の領地は不在のままだったため、秀次不在時に吉政が文書を出している。留守居役としても動いていた。

文禄2(1593)年11月、秀吉からの「尾張国中置目」によって尾張国荒地復興が命じられ、堤普請も進められる。

翌3年正月、秀次家臣徳永寿昌、吉田吉寛、原長頼とともに、田中吉政が惣奉行に命じられる。

堤が大破した海東・中島・海西・葉栗・春日井・愛知郡・堤がない知多・高橋・丹羽郡など各地ごとの奉行14名が決められ、三好吉房からも14名の奉行が出された。

木曽川


日数は25日間の予定であったが、実際はその後も続けられたようである。

普請には武士の普請衆や百姓が動員され、中島郡(現一宮市)の工事では6090人が従事している。

武士には、飯米が1人1日につき5合支給された。

普請箇所は、中島郡では、約105キロメートル、海東郡(三重県側)では、約155キロメートルに及び、全部合わせるとかなりのの大工事であった。

「秀吉を支えた武将田中吉政」サンライズ出版 尾張と田中吉政の項 播磨良紀より


筑後国での慶長本土居は、すごいと思っていたけど、その前にこういう工事をこなして来ていたのだから、心配なかったかもしれない。

みやま古地図


現に、吉政公は慶長本土居工事のその日、準備万端で頼れる重臣たちに任せて、江戸にいたそうです。

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柳川ゆるり旅参加しました

昨日の日曜日「柳川ゆるり旅」、予約した日がやってきました。


二時間で、会費千円でした。

柳川古文書館の館長さんの案内で、城内を歩きました。

柳川ゆるり旅2


実は、先月、柳川ウォーキングにも参加して、歩いたところが主でしたが、何度でも良いものです。(笑)

柳川ゆるり旅三


お城の話なので、そりゃあ、田中吉政の事は抜きでは話せませんよね。

でも、この橋の欄干の擬宝珠は、慶長四年の銘があるということで、お城は立花宗茂の頃に造り始めた…と言っておられました。

柳川ゆるり旅

でも、最近、書状が出て来て、田中の時代に、天守閣や二ノ丸、掘割は、作るようにと命が下ったので、それまでは出来ていなかった説が出てます…、らしいですよ。

なにせ、朝鮮出兵やら何やらで、筑後国には、ほとんどいなかったし、最初の柳川領国の時は短かったからですね。

それは、しかたがありません。

柳川ゆるり旅四


一通り歩いた後、古文書館で、古地図を見てのお話を聞いて、解散でした。

アンケートに、柳川には何回来たかの問いに、二十五回と書いた。

ちょっと、盛ったかな、えへへ。


石崎若狭 滋賀県長浜の旅二日目

お宿の方へ、石崎若狭の子孫の石崎さんが、訪ねて来てくださいました。

家系図の写しを見せて頂いたり、詳しい石崎家のお話を聞くことができました。

田中家三家老のひとりです。

この一族は、田中家に入る前の昔は、佐々木家に仕えていたそうです。

そして、今も、ご自宅は、昔からの小土豪のあと、堀のあともあったり、屋敷内に菩提寺の金光寺があります。


ちょうど、宿泊したところが、石崎さんのご自宅まで歩いていける場所でした。

金光寺を案内して頂きました。

虎姫旅


大きな、りっぱなつくりです。

虎姫旅五


本堂も、りっぱです。

以前、戦火で焼失したものを、石崎若狭が再興したと、古い資料で読みました。

虎姫旅2


長浜駅まで、車で送ってもらい、米原駅まで移動したら、一日目に迎えに来て頂いたお友達が、また見送りたいとメール。

少し時間があったので、カフェでお話ししました。

彼女は、石田三成ファン。

吉政公との絡みで、話は尽きません。

フェイスブックは、悪い面ももちろんありますが、このような出会いは、とても素敵です。

これからも、まだまだ、続きそうですね。


お土産


お土産、それぞれからたくさん頂きました。

次は、きっと、彼女が愛してやまない、三成の佐和山城へ。


長浜市知ら姫の旅一日目

長浜市ものがたり大賞の授賞式の後、フェイスブックのお友達、一人は帰っていかれ、あとの三人と文平さんとで、お寺に次々と連れて行って頂きました。


最初は、吉政公が、岡崎城主の時、お母さんのご葬儀に、岡崎まで参じたお寺様、誓願時です。

虎姫旅八

田仲家ことっては、このお寺が菩提寺だったのでしょう。

虎姫旅十一


お母さんが亡くなられた後、この梵鐘を追悼の為贈られたそうです。

この梵鐘は、北九州市小倉区の貫庄八幡宮にあったもので、正平21(1366)年の銘があるそうです。(浅井町指定文化財)

虎姫旅九


どのようにして、入手したかは伝わっていませんが、もし、九州平定の折にその天満宮で手に入れたとするなら、吉政公は、九州入りしていないと言われてきたことが覆りますね。

どちらかは、まだ謎です。


誓願寺は、昔は、江北十か寺の一つとして、織田信長の時代、お寺が城郭化した寺城として、勢力をもっていました。

虎姫旅十

広さも、もっと広くて、堀もあったでしょう。

次は、順光寺。

先日から、柳川の順光寺の一件がありましたね。

虎姫旅十二


このお寺の和尚様が、慶長の世に、筑後国まで、たくさんの人を伴って宮川氏と一緒に、吉政公を慕っておいでになったと言う事です。


そして、三度目の玉泉寺です。


ご住職が変わられたそうで、だいぶん整備されていました。

虎姫旅十四


中で、少しお話を聞きましたが、歴史は、あまりお詳しくないようでした。

この敷地に、吉政公が寄進した屋敷が建っていたそうです。

後の世、ここは、井伊家の所領となり、寄進を申し出たら、田中家ほどの格式がないので断られたと言う事でした。

それで、格の有る御養子縁組をされて、再び寄進を行われたそうです。

その格式…、田中家の詳しい生まれが、謎に包まれ、まだまた判っていません。

虎姫旅十三

虎御前山に連れて行って頂きました。

虎姫旅十七


かすかに、田圃アートの名残がわかる…。

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今年も、されるでしょうか?

夕暮れに、うっすらと、琵琶湖に浮かんだ竹生島が見えました。

虎姫旅十八

その後、お友達のご自宅で、お話に花が咲き…。

なにせ、フェイスブックで繋がり、かれこれ三年になるでしょうか…でも、会うのは初めてでした。

その間、いろんな情報や、美味しいものを送って頂き、そんな積もった話が尽きませんでした。

すっかり、暗くなり、バタバタと宿まで送って頂きました。


慶長本土居は、筑後国の要塞

田中吉政公の土居、慶長本土居と、外曲輪土居、汐留土居と、場所場所で違う名前で書かれています。

慶長本土居地図

だから、分かりにくかったので、城の堀以外に、土居と運河等の土居を描き込んでみた。

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半田先生が考えておられるように、一つのものなら、なんと、すごいこと。

国を取り巻く御土居、一石二鳥、いや、三鳥の壮大な城壁です。

幅約三メートル高さ約二メートル。

立花宗茂が、帰ってきた時は、さぞ、驚いたでしょうね。