2016_08
25
(Thu)13:52

たち花のつしの意味

たち花のつし、橘之辻子の意味がわかりました。

京都の御所の外。

禁裏六町〔一条二町、正親町二町、烏丸町、橘之辻子〕は、御所の警固など禁裏に奉仕するもの達が住むところ。

町通りから派生する横通りに対して辻子の名称が付けられたようであるが、それは町通りになる前段階の道を意味するそうです。

橘之辻子は51番です。

his2_02map.gif

ここに中原家は住んでいたのでしょうね。

ちなみに、御所はそこから右側のようですよ。

hist3_08_02.gif

そして、聚楽第は左側です。

聚楽第にも、吉政公のお屋敷がありました。

20130703094435.jpg

今も、田中町として名前が残っていますよ。


location.jpg

区役所や、いろんな聚楽第とはところから地図をお借りしました。

有難うございました。


スポンサーサイト
2016_08
19
(Fri)14:41

たち花のつし

まだまだ暑い日が続きます。

ハチ君とサク君は、暑いのにしっかりくっついて..、。

13934569_848038928628997_1376559745824172987_n.jpg

17日に大木町へ出張陶芸教室に行ってきました。

13921158_849102571855966_5644084230932600990_n.jpg

たまたま絵咲木のカフェをご利用頂いて、ご縁が繋がりました。

13934948_849102548522635_8428811250972388929_n.jpg

先日、三潴町のお芝居公演も見に来て頂き、感謝です。

教室には、飛び入り参加の男の子が、場を和ませてくれました。

そして、大木町福祉関係の職員さんが参加してあり、来年度のお仕事の依頼がありました。

お店に戻ると、相変わらずの歴史のモードに。

13935008_1069611186455708_6642707727362277050_n.jpg

かねてからの、滋賀県高島市安曇川の地図の下書きを書いてみました。

ここから、いつものように、書き込んでいける本地図を書きます。

午後、八木書店さんから、本が届きました。

「兼見卿記 第一」と「お湯殿の上の日記 〔7〕」どちらも、同じ時代頃のもの。

14063873_1074788789271281_6693775522904297302_n.jpg

吉政が生きた時代の一こまの日記です。

お湯殿の上の日記 〔7〕には、吉政の娘の夫、大外記中原師廉の娘を宮廷に入れることの記述があります。

天正8年〔1580〕の2月4日の項
たち花のつしのけきもろかとむすめこのほと宮の御かたにさふらはる..

この時吉政の孫娘にあたる師廉の長女は3歳くらいでしょう。

濁点が全くないので、それらしいところに濁点を当てはめて読みます。

長男の師生はその後の1581年に生まれています。

ここの文章から分かることは、長女が家系図では、師生の下に書かれていますが、お姉ちゃんだったということ。

当時は、見習い女官として幼くして出仕することもあったようです。

王親町天皇の頃の誠仁の官女となったのですね。

もうひとつ、「けき」は、大外記の役職のことでしょう。

「たち花のつし」が、橘の意味なのか?つしはづしかつじか?

師廉は橘姓ではないけれど、吉政の橘を意識したのか?

謎です..。

2016_08
10
(Wed)13:26

滋賀県長浜市湖北町田中の田中神社

滋賀県長浜市湖北町田中にある、田中神社です。

地図で見ていたら、ストリートビューで見れたので、さっそく行ってみた。


「日本城郭大系 京都 滋賀 福井」の66番田中館の欄

「大洞弁天当国古城主名札」に田中村屋敷主として、田中筑後守の名が見える、とある。

そこを見てみると、山本山の下辺り。

滋賀県長浜市湖北町田中の、私たちが以前橘氏の田中氏の先祖がこの地に土着した時、朝日村の田中神社を建立したかもしれないと仮説を立てていました。

「田中神社は、1180年源頼朝の旗揚げの戦火で、焼失したので、少し離れた場所に移したと」の伝承があるので、その時、虎姫村側に移動したのかもしれません。

ここが最初の、西田中神社跡です。

ほぼ田んぼになっています。

現在の田中神社より300メートル西だそうなので、ぐるぐる回ってたどり着きました。

13906783_1066544866762340_8419166476091856882_n.jpg

こちらが現在の田中神社です。

13886865_1068749163208577_8886357788449742922_n.jpg

田中家の移動仮説があたっているかも。

この田中神社には、素敵な観音様が今でも祀られています。

しかし、ストリートビュー、おそるべし。


2016_08
07
(Sun)16:01

大洞弁天当国古城主名札

昨日は、また夕立で、雷様がゴロゴロ。

でも、帰るとき、少しだけ外の空気が冷えていたので楽でした。

今日もまた、灼熱。

市の公共施設でコンサートがあると、昨日今日とランチのお客様がちらほら。

絵咲木のランチ時間は、二、三人くらいのお客様、それも猫好きでないと、年々..無理かなと思っています。

ゆっくりと、ハチとサクに話かけながら、八女の町並みの話や町家の中を眺めてランチが、望まれます。

皆さん、無理はなさらないで下さいね。

人のブログを見たりして、空想が大きくなってお越しになったら、がっかりしますよ。〔笑〕

ハチ君とサク君は、じっとしていません。

がんがん迫ってきますよーー。


さて、「日本城郭大系 京都 滋賀 福井」を見ていいました。

13600075_1045610572189103_6524382412932846662_n_2016080715333622f.jpg

66番田中館の欄「大洞弁天当国古城主名札」に田中村屋敷主として、田中筑後守の名が見える、とある。そこを見てみると、山本山の下辺り。

13906913_1066448726771954_8047527110616001659_n.jpg


あら、 仮説があたっているかも。

琵琶湖の東側、朝日村大字田中の、以前橘氏の田中氏の先祖がこの地に土着した時、朝日村の田中神社を建立したかもしれないと仮説を立てていました。

虎姫村や宮部より西になります。

「田中神社は、1180年源頼朝の旗揚げの戦火で、焼失したので、少し離れた場所に移したと」の伝承があるので、その時、田中の一族も虎姫村側に移動したのかもしれません。

それが、高島で二つに分かれたもう一方の橘氏田中家の流れ。

それが、吉政公につながるのです。


13920620_1066448736771953_8620996461941483822_n.jpg

この田中神社には、素敵な観音様が今でも祀られています。

ぜひ、行ってみたいです。



2016_08
06
(Sat)14:23

雷さまゴロゴロ

とっても暑い、灼熱の毎日が続いています。

毎日、35度前後。

いくら町家が涼しいと言っても、暑いです。

そして、いきなりの夕立。

ゴロゴロ雷さんが怖くて、固まるにゃんこたち。

13906839_842213812544842_155945844569438307_n.jpg

しばらくは、おりこうさんでいますよ。

先日から購入した本を読み進めています。

やはり、この「御湯殿の上の日記」のこのページは「お!」となります。

13686713_1061412543942239_8728397417131551197_n.jpg

宮中の女官が当番制で書いた、秀吉の甥の関白吉次の切腹の翌日の日記です。

めでたしめでたしと締めくくった後に、舞い込んできた訃報なのでしょう。

そう思ってみると、前後に関連した文章があるようです。

それから平行してみている、「高島郡志」

13903438_1064212216995605_7235578941577344597_n.jpg

このページは、佐々木高信の配流の項

足利義満の永禄五年〔1563〕

七頭の名称は何時代に始れるか詳からず、其家名についても異説あり、後世七頭の名のみ伝えて其家名を逸せし為なり。永禄五年十一月十一日足利義輝が...七頭の名を列挙して、

越中大蔵大輔    田中兵部大輔
朽木民部大輔    永田伊豆守
能登          横山三河守
山崎三郎五郎

とせり。

高島で、1563年11月11日 田中兵部大輔?

高島の別れたもう一つの橘氏田中城主ですよね。

吉政が兵部大輔になる前は、この人が官位を持っていたのですね。

正五位下です。

天皇から宣下してもらう官位です。

ちなみに、吉政はこのころは、15〜6歳かな。