FC2ブログ

蒲池城のお話

崇久寺の古文書を原拠とした「蒲池物語」には、「池の城は狭隘(面積などが狭くゆとりがないこと)にして城地の固め完力がれば柳川の堅陣を新に営え其城郭の構え舞鶴に準擬らえ本丸を以って鶴の胴とし、東の方の樋を左の翼とし、西の樋を右の翼とし、肥後道を右の足とし、久留米道を左の足とし、宮永村鳥水を鶴の頭とし、一万町を領しけり」とあるそうです。


いろいろなブログなどには、蒲池の城が、五層の天守閣が鶴の舞ったように見えたからとか、堀の巡らした城が難攻不落の城で「柳川三年肥後三月、肥前、筑前朝茶の子」と戯歌が流行ったと書かれています。


この古文書を読む限り、天守閣をそう呼ばれたのではなく、アスカの地上図みたいに、地上から見たら、元々の蒲池城が東西54m南北38mだったので、柳川の方はちょっと広かったかな…。

鶴が舞っているようだったというのが、だんだん間違って書かれたのでしょうね。


蒲池資料2


まして、この時代は、城には天守閣はまだ作られていません。天守閣が作られるようになったのは、信長の安土城(1585)からだと言われています。

蒲池氏が柳川に城を作ったであろう年は1559年。


湿地帯で堀は、自然の池を上手に利用していたかもしれません。

狭隘にして、は、せまいせまい意味でしょう。

とても攻めにくい城だったことは分かりますね。

樋は、雨水を集め地上あるいは下水に導くための装置、設備。堀ほどのものではなかったかも。

そして、その時の、肥後は?肥前は?筑前は?

最近のブログや書き物には、すっかり、久留米城とか、熊本城とかにすり替わっています。

このころは久留米城もありません。

熊本城も天守閣のあるあの形ではありません。

佐賀も同様。謎解きは面白いですね。

どこかおかしくて、いつかの、何かの書き物から、歴史は曲げられていますね…。


スポンサーサイト

柳川城の天守閣を作ったのは誰?

先日から、追跡している件。いったいどこで、完成形の柳川城が、蒲池氏や立花氏が作った城だと、間違ってしまったか?

田中家が改修しただけにとどまってしまったか?

本屋さんで、ついに発見してしまった。

50445776_2054481287968688_5884019635476496384_o.jpg

この本を見たら、確かに、「白秋が言った言葉のように蒲池城の堀割は、3重に廻り…など、柳川三年肥後三月、肥前、筑前朝飯前で誰も落とせなかった」とか書いてあった。

以前、福島城の事を書いてあったある人のブログに、「福島城には天守閣は無く、粗末な屋敷しか無かったので、八女市長が、その人にどんな城か尋ねて来たので、そう言ってやった。ふるさと創生のお金で城を作ろうと思ったらしいが、無駄なことをしなくてよかったよ」と、書いてあったのを読みました。

三重の天守閣があったのに、その郷土史家は、そう市長に言ったと誇ってブログに書いてあるのです。

今、もし、福島城がセメント作りでも何でも建っていれば、どれだけいいかと思います。

話を戻すと、この本がまだ、出回っているので、これを資料にして、ブログに書いたりすることで、そういう件が出回ってしまうのだな…と思います。

小説ならまだしも、田中家の時代を知らなすぎです。

今からでも、その時代の各々の技術の真実を書いてほしいと切に思います。

穴太衆でなければ、あの石垣も、堀割も無かったかもしれません。穴太衆でさえご存じないでしょうね…。

柳川城の城は

「地図のなかの柳川」柳川市史地図編より抜粋。


柳川城の縄張り2


寛永四(1627)年頃と比定される「幕府隠密命書」の中に、略図ながらも柳川城の縄張りが記されている。

これを見ると、曲輪配置と近似しており、寛永年間から基本的に縄張りプランが変化していないことを窮わせる。

また、立花氏再入城以後には、管見の限りプランの変更を伴うような大規模な改修の記録は見当たらない。

これらのことを鑑みて、田中氏時代まで遡ることが想定される。

柳川城の縄張り


田中氏時代については、入部当初の柳川城の大改修が、文献史料から確認される。

「田中興廃記」興之巻にも見え、「筑後将士軍談」巻之第四十六にも、記されている。

そして、それらの記述を裏付ける同時代史料として、「慶長七年台所入之掟」がある。

掟の代二十一条から後半部にかけて、天守の作事や天守台、本丸、西之丸、堀などの普請についての具体的な指示が成されている。

指示された普請の範囲は城郭全体に及んでおり、「田中興廃記」等の編纂史料に見られる記述を裏付ける。

つまり、後々、立花氏の時代に描かれた絵図や、城の絵は、田中氏時代に築かれたものだと考えられるってことです。


やっと、ほっとしました…。

ほらね、やっぱり、蒲池氏の頃も、立花氏の最初の頃も、そんなりっぱな城はなかった。

造ったのは、田中吉政でした。


筑後国柳川城

最近、城好きな人のサイトや、ウキペディアなどに、柳川城の事を書いてあるのを見ると、とても残念です。

なぜなら、彼らは、柳川城は、蒲池氏の時代文亀年間(1501年から1505年)に築城し、すでに「柳川三年、肥後三月、肥前、久留米は朝茶の子」と言われたと書いてある。

天守閣を見て、舞鶴城などと呼ばれたと。1501年は、どんな時代か、どのような城が築かれたか知っていますか?

長浜城だって、1573年に築城ですよ。

岡崎城だって、吉政が天守閣を造る前は、土塁に櫓が建っている程度だったそうです。

天守を構える時代は、1501年よりずっとあと。ずーーとあとです。

城もそうだけど、堀のことも、すでにあって吉政公が改修した、その程度にかいてあります。

柳川の城は、
「織豊系の縄張りを技術ふんだんに用いて構築されたことが明らかである。同時にその縄張りは、複雑化した織豊系縄張りが簡略・形骸化に向かう慶長後期の傾向を先取りした、最先端の縄張り的展開を見せたものであったと評価できる。」(城郭の縄張り構造と大名権力 小島孝之著の田中領本城柳川城の項)です。


おいおい…、その蒲池氏の時代の蒲地本城は東西約54m南北38m。

湿地帯の中に作ったでしょう。それは、攻めにくかったかもしれませんよ。

でも、城はというとその時代の方形居館。

みなさんは、地元の書かれた「南筑明覧」と「蒲池物語」に惑わされています。

豊臣秀吉の長浜城が出来たのが1574年。

1501年って、なんで、そんなすごい城が、その時代ある訳ないと思わないのか…へこんでしまいます。


49896163_2057391387677678_6992778392265293824_n.jpg



天守閣も、田中の時代に造ったとされているのに…。天守閣も、三重の堀もない城を舞鶴城とは言わないでしょう?

水門を開ければ、攻めた側、城の外が水攻めに合う、そんな城を造ったのは田中吉政公です。

誰か、間違い、またそれをそう思ってしまって、書いてしまった伝言ゲームが発生したのでしょうか?

近江国や、岡崎などを調べていて、まさか地元がこうなっちゃっているなんて、気づいて、がっかり。

さて、さて…。対策を考えねば。

地方の小さな国の集合体だった筑後国に、中央からやって来た、城や石垣のスペシャリスト、秀吉の直属で清州城、丹波国の各城、伏見城、近江八幡城、岡崎城、数え切れない城の縄張りを監督してきた田中吉政公の本当の姿を、もっと知るべきではないでしょうか。


柳川に、お正月のご挨拶

お天気が良かったので、久しぶりに、柳川を歩いてきました。

筑後国主田中吉政公に、お会いしてきました。

田中吉政像


初代筑後国主、この官職は、吉政公だけが名乗ることのできるものです。

田中吉政像二


日吉神社の裏手になると知ってはいたのですが、久しぶりの事で、わざわざ遠回りになってしまいました。日吉神社の前を右側に曲がり、次の道を左に回り込み、左。

すると、吉政公の後ろ姿が見えてきましたよ。


田中吉政像散策三


柳川市坂本町16-10番地に、立っておられます。


掘割に着いて、船下りの人達を眺めて、

船頭さんが、吉政公の説明をあっさりと「城と堀を作った人」だといったので、

「32万5千石なんだよーー!」と叫べば、船頭さんが、

「助手がそう言っています!」

お客さんが、大笑い。

てへへ。

田中吉政像散策五

水面の見て、左に遊歩道が見えたので、どこまでかいけるだろうと歩いてみました。

すると、日吉神社の駐車場側の堀端にでました。

日吉神社

一周回って来てしまいました。

さっき、一度お参りしましたので、逆写しで。


日吉神社二


大きなお多福さんのお面の口をくぐります。

日吉神社六


ということは、この神社に車を止めさせてもらって、堀端の遊歩道を歩けば、すぐってことでした。

田中吉政像散策四

この地域は、坂本町。

近江(今の滋賀県)から、吉政公に頼って、たくさんの人が移住してきました。


また、次の機会に書きますが、近江国上坂村の順慶寺の和尚さん(宮川氏)が、檀家24家族、友達も引き連れて。吉政公を慕ってやってきたのです。

もともと、日吉神社の総本社が近江国坂本(今の滋賀県大津市坂本)にあり、そこから村頭が勧請したと言われていて、それにちなんで、坂本村となったと言われています。

そして、ここは城の内。

近江国の人々で、賑わったことでしょぅ。