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岡崎市 内田市長のブログ

ちょっと前の、岡崎市長さんのブログに、岡崎城の詳しいせつめいを書いておられるので。コピーしてそのままあげさせていただきます。

内田やすひろの政策日記より

以下

先生方のお話では、我々が走り回っていたお堀の造りは、「戦国期の城の様式を伝える大変貴重なものである」ということだった。堀の斜面が土のままの所もあるが、この方が足がすべって攻めにくかったらしい(切岸、きりぎしという)。最初の堀の対岸側は石垣で少し高くなっており、かつてそこには土塀(どべい)が巡らされていた。城内に侵入して来た敵をここから、弓や鉄砲で攻撃できるようになっていたという。

 堀の上部の石垣の切れ目の通路はかつては土橋であり、対岸には「太鼓門」という二階建ての櫓門があったそうだ。→図のA

岡崎古地図


 さらにこの城門を突破した敵は二つ目の堀に沿って360度左手に回らされることになる。右手に二つ目の堀、左手には石垣とかつて土塀があったせまい道は持仏堂曲輪(じぶつどうぐるわ)と呼ばれ、ここを通過する敵は城側から再び弓と鉄砲の洗礼を受けることになる。しかも後方からである。幸いにしてこの城は実戦でここまで攻め込まれることはなかった。

 この二つ目の堀は大きく右へわん曲している。このような形の堀は「清海堀」(せいかいぼり)と呼ばれ、このあたりでは大変珍しいものだという。
しかもカーブの形状は美しく石垣で整えられており、お城ファンにとってはたまらない魅力であるそうだ。こうしたわん曲した堀は戦国期の特徴の一つでもある。土造りの浅いものなら東北地方によくあるそうだが、堀の外周面が石垣造りとなっているものは国内でも例が無く、石垣の形状から田中吉政の時代のものと江戸期に修復された部分の違いが分かるという(やはり専門家の目はスゴイ!)

岡崎城 内田市長


 お城の真北から二つ目の堀の上を渡る「廊下橋」がある。→図のB
 これは城からの出撃や脱出を考えて造られたものである。直接、天守閣に接続する位置に橋があるのも珍しく、現存しているのは唯一岡崎城だけだという。
 今見られる橋は明治以降に造られた石造りのものであるが、本来は木製であり、屋根付きの櫓(やぐら)のような橋であった。しかし「石橋の方もすでに近代文化遺産としての価値があるため大切にするように」というお話であった。
 お城の東にある現在の「巽閣」(たつみかく)の北面の石垣は、「深くて、水堀とのコントラストも大変美しく、余分なモノを取り除いて修景してPRすべきである」との御指摘であった。
 「この部分の石垣は切り込みハギでモザイク状になっており、これは江戸後期(19世紀)の様式」とのことである。
 このように比較的新しい石積みと、戦国期と江戸前期、中期のものと多様な石垣が見られるというのも岡崎城の魅力の一つと言える。また巽閣の石垣の表面には、石工のノミの跡が残っている。きれいに平行なスジがついているもの、乱れているものなど個々の職人の腕の差まで察しがつくらしい。

岡崎城 内田市長2


 現在巽閣の反対側には明治期の郷土の偉人、志賀重昂博士(明治期、イギリスの王立地理学会のメンバーにもなっていた地理・民俗学者)による、アメリカのテキサス州にあるアラモ砦の守備隊の戦いと日本の長篠城攻防戦の勇士達を讃える石碑が立っている。→図のC
 同じものがサンアントニオ市のアラモ砦に贈られているが、これについても「近代の歴史遺産として大切にするように」ということであった。そして後ろにある石垣は枡形(ますがた)の虎口石垣と呼ばれ、これも関ヶ原の合戦以前のものであり、大変珍しいものだそうである。またここにも城門があったという(本丸御門)。

岡崎城 内田市長⒊


 いよいよ龍城神社前からお城の正面位置まで来た。岡崎城の大きな魅力の一つは、秀吉の大坂城(昔は土偏の「坂」であった)築城に際し加藤清正と共に城造りに関わった田中吉政が築いたものであるため、二つ城の類似性が多く見られる点である。付櫓の位置や形状が同じであるし、天守台の北側に幅約6メートル、西側に幅約3メートルの武者走りの通路が設けられるなど、失われた豊臣・大坂城の天守の様子が数多くうかがえるという。徳川の本拠地で、豊臣の城の痕跡が残っているというのも一興である。
 天守台の石垣が忍返し(しのびがえし)の形、算木積みではなく、逆反りの勾配になっているが、これは決して手入れが悪くて石垣が孕(はら)んだわけではない。野面(のづら)積みという戦国期特有の石垣であり、この形状のものは現在では岡山城、延岡城と岡崎城の三城と、彦根城の一部のみにしか見られない。(三城に岡の字があるのは偶然か?) 写真に見られるように、石垣の上下で色が違っているのはカビと地衣類によるものだという。
 また城の西側から下る坂道の両側にある石垣にも、かつては非常口としての城門があった。石垣上部に残る加工の跡は門の冠木のなごりだという。「石垣の上にある松の木は、後世のものであり、石垣の保存のために悪いので切るべし」というのが三浦先生の御意見であった。


以上です。

この記事で、気になったのが、大阪城は、秀吉の大坂城(昔は土偏の「坂」であった)築城に際し加藤清正と共に城造りに関わった田中吉政が築いたものであるため、二つ城の類似性が多く見られる点である…です。

えー、大阪城も、縄張りなどをしていた?
次から次と、ハードすぎます。

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柳川ゆるり旅参加しました

昨日の日曜日「柳川ゆるり旅」、予約した日がやってきました。


二時間で、会費千円でした。

柳川古文書館の館長さんの案内で、城内を歩きました。

柳川ゆるり旅2


実は、先月、柳川ウォーキングにも参加して、歩いたところが主でしたが、何度でも良いものです。(笑)

柳川ゆるり旅三


お城の話なので、そりゃあ、田中吉政の事は抜きでは話せませんよね。

でも、この橋の欄干の擬宝珠は、慶長四年の銘があるということで、お城は立花宗茂の頃に造り始めた…と言っておられました。

柳川ゆるり旅

でも、最近、書状が出て来て、田中の時代に、天守閣や二ノ丸、掘割は、作るようにと命が下ったので、それまでは出来ていなかった説が出てます…、らしいですよ。

なにせ、朝鮮出兵やら何やらで、筑後国には、ほとんどいなかったし、最初の柳川領国の時は短かったからですね。

それは、しかたがありません。

柳川ゆるり旅四


一通り歩いた後、古文書館で、古地図を見てのお話を聞いて、解散でした。

アンケートに、柳川には何回来たかの問いに、二十五回と書いた。

ちょっと、盛ったかな、えへへ。


石崎若狭 滋賀県長浜の旅二日目

お宿の方へ、石崎若狭の子孫の石崎さんが、訪ねて来てくださいました。

家系図の写しを見せて頂いたり、詳しい石崎家のお話を聞くことができました。

田中家三家老のひとりです。

この一族は、田中家に入る前の昔は、佐々木家に仕えていたそうです。

そして、今も、ご自宅は、昔からの小土豪のあと、堀のあともあったり、屋敷内に菩提寺の金光寺があります。


ちょうど、宿泊したところが、石崎さんのご自宅まで歩いていける場所でした。

金光寺を案内して頂きました。

虎姫旅


大きな、りっぱなつくりです。

虎姫旅五


本堂も、りっぱです。

以前、戦火で焼失したものを、石崎若狭が再興したと、古い資料で読みました。

虎姫旅2


長浜駅まで、車で送ってもらい、米原駅まで移動したら、一日目に迎えに来て頂いたお友達が、また見送りたいとメール。

少し時間があったので、カフェでお話ししました。

彼女は、石田三成ファン。

吉政公との絡みで、話は尽きません。

フェイスブックは、悪い面ももちろんありますが、このような出会いは、とても素敵です。

これからも、まだまだ、続きそうですね。


お土産


お土産、それぞれからたくさん頂きました。

次は、きっと、彼女が愛してやまない、三成の佐和山城へ。


長浜市知ら姫の旅一日目

長浜市ものがたり大賞の授賞式の後、フェイスブックのお友達、一人は帰っていかれ、あとの三人と文平さんとで、お寺に次々と連れて行って頂きました。


最初は、吉政公が、岡崎城主の時、お母さんのご葬儀に、岡崎まで参じたお寺様、誓願時です。

虎姫旅八

田仲家ことっては、このお寺が菩提寺だったのでしょう。

虎姫旅十一


お母さんが亡くなられた後、この梵鐘を追悼の為贈られたそうです。

この梵鐘は、北九州市小倉区の貫庄八幡宮にあったもので、正平21(1366)年の銘があるそうです。(浅井町指定文化財)

虎姫旅九


どのようにして、入手したかは伝わっていませんが、もし、九州平定の折にその天満宮で手に入れたとするなら、吉政公は、九州入りしていないと言われてきたことが覆りますね。

どちらかは、まだ謎です。


誓願寺は、昔は、江北十か寺の一つとして、織田信長の時代、お寺が城郭化した寺城として、勢力をもっていました。

虎姫旅十

広さも、もっと広くて、堀もあったでしょう。

次は、順光寺。

先日から、柳川の順光寺の一件がありましたね。

虎姫旅十二


このお寺の和尚様が、慶長の世に、筑後国まで、たくさんの人を伴って宮川氏と一緒に、吉政公を慕っておいでになったと言う事です。


そして、三度目の玉泉寺です。


ご住職が変わられたそうで、だいぶん整備されていました。

虎姫旅十四


中で、少しお話を聞きましたが、歴史は、あまりお詳しくないようでした。

この敷地に、吉政公が寄進した屋敷が建っていたそうです。

後の世、ここは、井伊家の所領となり、寄進を申し出たら、田中家ほどの格式がないので断られたと言う事でした。

それで、格の有る御養子縁組をされて、再び寄進を行われたそうです。

その格式…、田中家の詳しい生まれが、謎に包まれ、まだまた判っていません。

虎姫旅十三

虎御前山に連れて行って頂きました。

虎姫旅十七


かすかに、田圃アートの名残がわかる…。

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今年も、されるでしょうか?

夕暮れに、うっすらと、琵琶湖に浮かんだ竹生島が見えました。

虎姫旅十八

その後、お友達のご自宅で、お話に花が咲き…。

なにせ、フェイスブックで繋がり、かれこれ三年になるでしょうか…でも、会うのは初めてでした。

その間、いろんな情報や、美味しいものを送って頂き、そんな積もった話が尽きませんでした。

すっかり、暗くなり、バタバタと宿まで送って頂きました。


長浜ものがたり大賞授賞式

2月23日に、長浜ものがたり大賞の授賞式に、長浜市虎姫の虎姫文化ホールに行って来ました。

2月の中旬に、文平さんが奨励賞を受賞したとの連絡が入り、みんな喜びました。


当日、長浜入りです。

フェイスブックでお友達になった、清子さんに米原駅で拾ってもらい、現地まで。

初めてお会いするのに、感謝でした。

一時開会式だったので、近くのカフェで食事をして、お互い、情報の交換でした。

虎姫旅⒎


会場に入られる市長さんと、フロアーで目が合ったので、ささと、ご挨拶。

市長さんとも、フェイスブックで繋がっていましたが、初対面。

赤い花をつけて、文平さん嬉しそうでした。

虎姫旅6


短い時間に書き上げた、歴史小説です。

もちろん、吉政公が主人公です。

入賞者の方々と合わせて、本になるらしいです。


会場には、他に同じくフェイスブックで繋がった、滋賀県のお友達が3人も、駆け付けて下さいました。

授賞式の後、その方々と、視察に繰り出しました。

その様子は、次のページで。

嬉しい1日でした。