2016_09
22
(Thu)19:51

近江の金龍山善性寺

「近江興地志略」滋賀県近江八幡市田中江にある金龍山善性寺の大日堂の項を見てみる。

「観月ト西居士月山如印大姉」という者の九重の石塔あり。

当堂の開基田中氏の者の墓なり、とある。

これってどなたのお墓?

延暦寺の別院として栄えた旧定林寺。

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それで、思い切って、滋賀県の県庁の文化財課にメールでお尋ねしてみました。

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2016_09
16
(Fri)15:17

田中を名乗った時期

最近の田中ご先祖捜索クラブ?の疑問。

橘姓だったご先祖が、いつ田中を名乗ったかを知りたい。

橘義清で検索してみると出てくるのがこんな感じ。

1、近江山中城は、建久5年に山中俊直によって築かれた。 山中氏は、橘諸兄の後裔橘義清が鈴鹿峠山中に住して山中氏を称し、俊直の代に鈴鹿山麓の山中村地頭で鈴鹿警固役を務めるた。 その後、惣領家は柏木御厨の地頭に補され山中氏屋敷移住し、甲賀二十一家に数えられる国人となった。

この橘義清さんは、よそのページをお借りすると、

寛弘7(1010)年ごろ、出生
 万寿3(1025)年ごろ、大学寮入学か
 長元5(1032)年ごろ、春宮少進
 長元6(1033)年12月、六位蔵人
 長元7(1034)年10月5日、祭主大中臣輔親が碧珠を献上するに際し
                   主上の御前に勤仕(『左経記』)
            10月20日、蔵人の労により正六位上・修理亮を拝命
                   (『日本紀略』『魚魯愚鈔』文書標目)
 長元8(1035)年5月16日、『賀陽院水閣歌合』に蔵人式部少丞として
                   右の員刺・方人を勤める
 長元9(1036)年4月22日、後一条天皇崩御で御遺骸を上東門院に移す際、
                   父義通らとともに御棺を担ぐ
            5月17日、先帝蔵人7人の中にあり、重成(兼長)・頼家
                   とともに素服を給すべく定められる
            5月19日、遺骸を浄土寺にて火葬の際、御棺の運搬を担当
            5月24日、掃除
            5月25日、御仏供養に勤仕(『左経記』)
 長暦元(1037)年3月1日、女御嫄子立后に際し中宮少進に任ぜられるか
            6月28日、中宮が神饌を賢所に奉った際、勤仕
            8月2日、鹿島使発遣に際し勤仕(『平記』)
 長暦2(1038)年9月13日夜、 『権大納言源師房家歌合』出詠
 長久元(1040)年12月、少納言見任(『春記』12月23日)
 長久2(1041)年4月7日、『権大納言源師房家歌合』出詠
 長久3(1042)年閏9月晦日、高陽院で開催された歌合に参加
            このころ『橘義清歌合』を主催
 寛徳元(1044)年ごろ、肥後守任官
 永承6(1051)年12月、勘解由次官に任ぜられる(『魚魯愚鈔』巻七、「兼国勘文」)
 永承7(1052)年9月19日、『関白家蔵人所歌合』に出詠
 天喜4(1056)年、正月、丹波介を兼任(『魚魯愚鈔』巻七、「兼国勘文」)
 天喜5(1057)年2月2日、春日祭藤原師実の一行が社頭で祓を受けた際、
                  従者として春宮大進義清参入
 康平2(1059)年ごろ、没?

そして、この義清さん、田中吉政にも繋がると書いてあるものも多い。

それが山中に?

どのタイミングでしょう。

ひょっとしてその子供のとき、分家したのでしょうか?

最近見つけた文章に、

「吉政公の先祖、伯耆守田中政弘は、居河内国田中村浅井氏の家譜にある」と記されていました。

その田中村は兵庫県神戸市東灘区の旧・本山村域の西南端、国道2号線を南限・住吉川を西限・JR東海道本線を北限らしい。

そこに 三王社を見つけました。

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紋が三つ巴です。

ご先祖は、ここに居た時期があったのかもしれません。

また、「近江国八幡村の橘氏族田中政弘を祖とする伯耆守田中宗廉が三河国の浅井村に来村し」と見つけました。

八幡村とは、探したら現在の滋賀県蒲生郡竜王町田中でした。

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吉政のご先祖様は、ここにも居たのですね。

八幡社(浄満寺jまで、いつものストリートビューで行ってみましたよ。

結果、田中政弘さんが神戸の灘あたりに居て、伯耆守田中宗廉が竜王町に移り、それから浅井村に来たってことでしょうか。

その間、9代後と書いてあるものも発見。

かなり前から、田中を名乗っているのと同時に、そこは地名が田中です。

田中村を探して、迷子状態です。

詳しい方、ヘルプミー。


2016_09
03
(Sat)18:12

さぁ、マップを作ろう

高島市安曇川の山城、引き続き気になります。

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阿弥陀山の裾野に広がる山城。


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そして、繋がる城下の町並み。


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ここは、太山寺城の少し降りたところに台地があって、今は泰山寺という名の集落になっています。

古代、阿弥陀山、太山寺山にお寺があり、そこが衰退した後を城に作り変えたらしいです。

それで、いくつかのお堂やお寺は泰山寺集落に移されました。

下の写真は、阿弥陀山から、西側を見た風景。

台地の先が安曇川の町です。

そして、その先に見えるのが、琵琶湖ですね。


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その先に、うっすらと見えるのが、長浜あたりでしょうか。


書きながら確認です。


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一つ一つ、散らばった史料を、選び、照らし合わせながら、私の地図を書こうと思います。

今日も、あちこちから写真や絵をお借りしました。

有難うございます。

・・・・・・・・・・・

先日の大木町の出張陶芸教室、作品ができたので、お届けしました。


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喜んでもらえるといいなぁ。


2016_08
25
(Thu)13:52

たち花のつしの意味

たち花のつし、橘之辻子の意味がわかりました。

京都の御所の外。

禁裏六町〔一条二町、正親町二町、烏丸町、橘之辻子〕は、御所の警固など禁裏に奉仕するもの達が住むところ。

町通りから派生する横通りに対して辻子の名称が付けられたようであるが、それは町通りになる前段階の道を意味するそうです。

橘之辻子は51番です。

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ここに中原家は住んでいたのでしょうね。

ちなみに、御所はそこから右側のようですよ。

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そして、聚楽第は左側です。

聚楽第にも、吉政公のお屋敷がありました。

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今も、田中町として名前が残っていますよ。


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区役所や、いろんな聚楽第とはところから地図をお借りしました。

有難うございました。


2016_08
19
(Fri)14:41

たち花のつし

まだまだ暑い日が続きます。

ハチ君とサク君は、暑いのにしっかりくっついて..、。

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17日に大木町へ出張陶芸教室に行ってきました。

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たまたま絵咲木のカフェをご利用頂いて、ご縁が繋がりました。

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先日、三潴町のお芝居公演も見に来て頂き、感謝です。

教室には、飛び入り参加の男の子が、場を和ませてくれました。

そして、大木町福祉関係の職員さんが参加してあり、来年度のお仕事の依頼がありました。

お店に戻ると、相変わらずの歴史のモードに。

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かねてからの、滋賀県高島市安曇川の地図の下書きを書いてみました。

ここから、いつものように、書き込んでいける本地図を書きます。

午後、八木書店さんから、本が届きました。

「兼見卿記 第一」と「お湯殿の上の日記 〔7〕」どちらも、同じ時代頃のもの。

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吉政が生きた時代の一こまの日記です。

お湯殿の上の日記 〔7〕には、吉政の娘の夫、大外記中原師廉の娘を宮廷に入れることの記述があります。

天正8年〔1580〕の2月4日の項
たち花のつしのけきもろかとむすめこのほと宮の御かたにさふらはる..

この時吉政の孫娘にあたる師廉の長女は3歳くらいでしょう。

濁点が全くないので、それらしいところに濁点を当てはめて読みます。

長男の師生はその後の1581年に生まれています。

ここの文章から分かることは、長女が家系図では、師生の下に書かれていますが、お姉ちゃんだったということ。

当時は、見習い女官として幼くして出仕することもあったようです。

王親町天皇の頃の誠仁の官女となったのですね。

もうひとつ、「けき」は、大外記の役職のことでしょう。

「たち花のつし」が、橘の意味なのか?つしはづしかつじか?

師廉は橘姓ではないけれど、吉政の橘を意識したのか?

謎です..。